自分にしかない「宝物」

おはようございます、satoです。

人には必ず何かしらの「宝物」があります。だけど、それを掘り出すことは簡単なことではありません。

最近、ネットで話題になった作品がメディア化され、人気になっているということが多く見られます。
元々絵は得意でないけど、物語が面白くて話題になり、それをメディアにする際により良い絵描きさんと組んで再構成される、という流れです。
そういう作品は「構想」が面白くて、また目新しいところがあります。以前だったら書くことのできなかった内容が。
おそらく昔だったら見つけられなかった「隠れた才能」がネットによってより見つかりやすくなっている、そのような「恵まれた」時代になりました。

その一方で、今年は(今年も)様々な社会における不正・犯罪が露わになりました。
これもまた、インターネットによってユーザーの感想・発見が広がったことによるところが大きいです。また、以前より技術が向上したこともあります。

神様は「公義」に働かれます。この公義に、というのは「行なったとおりに報いられる」という意味です。

だから、たとえ人に見られなかったとして、行なったことが善であれ悪であれ、見られるようになっています。

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。-マタイによる福音書13章44節

この聖句にあるように、人には必ず「神様に与えられた個性」という宝物があります。
しかし、それは始めから見えているものでなく、掘り出さなければならないものです。そしてそれは簡単なことではありません。
個性を「掘り出す」ということは、自ずと「自らと向き合い、削る」ことになるからです。
畑に隠してある宝を見つけるためにも「土を掘る」ことが必要なように、人の中にも「土」のようなものがあります。雑多な考え、行い、心、欲等、様々に。
でも、私達だけでは「どれが宝でどれが土なのか」を分別することが出来ません。

畑に隠してある宝も、私達が想像するような「金銀財宝」とは限りません。そうだったら分かりやすいですが、たとえば宝とは「地中深くにある『どんな作物でもよく育つ肥沃な土』」だったとしたら、「今掘っているのが普通の土なのか、肥沃な土なのか」分別できなさそうです。それは専門家が見ないと分かりません。

だから、御言葉を聞いて「本来の人間の目的」を知り、それに沿って生きていくのが宝を見つけるのに一番早いです。
「ここほれワンワン」ではないですが、「宝のある目的地」を知ればそこに沿って土を掘れば良いのですから。

かと言って、それでは目的を知って掘ればそれでたどり着けるかというとそれだけではありません。
時には石をどけたり、誰か邪魔する人と戦ったり、何かしら行うことが出てきます。

つまり、「自分と向き合い、行なっていく」ことなしには才能、個性は見つけられないし、発揮できないのです。
先に話した、最近話題になった漫画の原作者たちも皆「書いた」から見出されたのです。そして、この「書く」こともまた「自分と向き合うこと」なしに成し遂げることは出来ません。
最終的には、「やるしかない」のです。

「自分にしかない宝物」という言葉はとても響きのいい言葉です。実際、それはあります。
だけど、それを掘り出し活かすには、甘さだけでは済まない、それこそ苦痛ともがきがあるのです。
だから、私はそのように出来ている人を尊敬します。

私は、まだそれが出来ているようには思いません…。才能も、個性も、方向性も分かっているのに、行なっていないから。
結局、私もまた「書く」しかないのです。

せめて今年最後は精一杯もがいてみようと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。