幼子と接していて感じたことについて

おはようございます、satoです。
今日はこちらの聖句について感じたことを書きたいと思います。

18:15イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。 18:16するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。 18:17よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

口語訳聖書 ルカによる福音書18章15−17節

最近、教会にいる子どもたちと遊ぶ機会が結構多いのですが、子どもたちを見るたびに思うのが

「子供は本当に自由だなぁ」

ということです。たとえば、教会の中にいても、外にいても、独自の遊びを思いつき、自由に楽しく遊び回ります。
こういう「自由な発想」は子供が一番プロだと私は思います。
また、子供たちは無尽蔵に走り回り、疲れたら電池が切れるように眠っています。
それくらい、瞬間瞬間に全力で投資する、というのが本当に上手です。

私もおそらく子供の時にはこうだっただろうなと思いますが、いつの間にかこういうことができなくなっていました。
昔だったら色々楽しんでいたゲームもなぜか楽しくない…というより「どうやったら良いのかわからなくなっていました」。
決められた遊び方があって、そのルールに従うのが当たり前になっていたなぁと思います。自由に遊ぶだけの力がいつの間にかなくなっていたような気もします。
それに、自分がある程度疲れてきたらそれを感知して力を抑えたりするし、自分に何ができて何ができないのかを考えながらできるところに全力投資する一方で、できないことは避けがちです。

イエス様は幼子のような人が天国に行く、と書いていますが、確かに神様の前で「自由に喜び楽しみ、全力で駆け回る」姿は天国にいるよう人のようです。
不思議と、大人になると忘れている感覚で、どうしても取り戻そうとしてもできないものだなと思います。

不思議なことに気がついたら私が子供たちと遊んでいることが多いです笑
でも、私は「子供たちに遊んでもらっている」と考えていて、それは「子供が一緒に遊んでくれる」ことが本当に恵みであり、滅多にないことだからです。だから正直楽しいし、嬉しいです。

自分の幼子になれない部分はなんだろうと思った時に一つ挙げられるのが不安です。
成長するにつれ、自分が理解できる範囲が広がって、それを考えるときに不安になってしまう。それはある意味で成長なのですが、そこから一歩次元を上げて「不安を神様に委ねる」ことができたら、もっと自由になれるのかなと思いました。
つまり、「これは不安ですが、神様に委ねます!」って言って任せる。
自分自身でやろうとするから不安なのです。自分でやろうとしたら、できるイメージが湧かない時には不安にしかなりません。そこを神様に委ねてとりあえずやってみる、そうすると神様が方向を修正してくださって最後にはうまく行くようになります。

自分ができること一つ一つが神様の恵みであることを分かって感謝し、委ねられるような人になっていきたいなと思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。