「できない」から「できる」へ〜信仰の作り方〜

おはようございます、satoです。
日曜は教会で礼拝を捧げ、鄭明析先生が送ってくださった御言葉を聞きながら自分の信仰を再確認し、最近は神様が私に向けて良くしてくださる御心があるんだ、ということを感じつつ喜んで聴けるようになりました。
そして、その後は教会の行事があったりなかったりですが、時たまスポーツを行なっています。今週はバレーでした。

今回のバレーはいつもより積極的に行うことができたような気がします。
人がちょっと少なかったというのもありますが、経験者やバレーが上手い人の強烈なアタック・サーブに対しても反応してレシーブできたり(上がったけどうまくセッターに上げられなかったのが大半ですが…)、結構サーブを決められたり…。
とても楽しくプレイできました。

ところで、プレイしている最中に一つ気づいたことがありました。
以前だったらこんな上手い人のサーブ/アタック取れるかなぁ…取れないよなぁ…という考えが浮かんでいたのですが、今回…だけでなく、ここ一年間で取れる、できるという考えが強くなっていました。
むしろ「取ってやる!こっちに来〜い!」というくらい強い気持ちが出ていました。これは以前の自分では考えられなかったことで、昔の私だったらまず「自分が取れなかったらどうしよう…」という不安が湧いていました。そうでなかったとしても「これはできなさそう…」って考えちゃうんです。

このことを考えると「積極的に自分のところに来るように考える」自分というのはとても大きな変化だと思います。
自分からするとだいぶ不思議な変化…あるいは成長をしているのですが、これは果たしてどうしてなのかを少し分析してみました。

まず、大前提として「私は基本的に後ろ向きに物事を捉えがち」な部分があります。
不安なところ、あるいは失敗しそうなイメージが少しでもあるとそっちが先行して動けなくなるのです。
それでは、今回のバレーでどうしてこのイメージが出なくなったのはどうしてか…そこはひとえに「自分自身が経験した成功経験」によって「できるイメージが体に染み付いた」からなのかもしれません。
摂理に来てから教会でやるようになったバレーももう長く続けてきて、だんだんとプレイが良くなって「自分がどう動けば良いのかイメージが浮かぶ」ようになってきた感じがします。

そういえば、数学の論文を読む時も最初は理解できなかったものですが、繰り返し読むようになってだんだんと頭の中でイメージが繋がるようになって読み解けるようになってきます。こうなると自分の中で面白くなっていくのです。

こうやって最初はできなかったことだったとしても、自分の中で積み重なっていく成功経験によって「できる」イメージに変わっていくのだということを、摂理に来てから多く経験するようになりました。

2:17信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 2:18しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

口語訳聖書 ヤコブの手紙2章17−18節

こう考えると、上の聖句のような「行いのない信仰は死んだものである」という御言葉は、信仰だけでは死んだものと同じ、というだけでなく「行い」によって信仰が生まれていくということでもあるのだなぁ…と深く実感しました。

そもそも、後ろ向きに考えてしまう私ですが、少しずつ成功経験を積み重ねていって、失敗したことも、苦手なことも、少しずつ自分の中でできるようなイメージにしていきたいなぁと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。