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人はいつ大人になるのだろうか

人はいつ大人になるのだろうか

おはようございます、satoです。

私が仕事をしているときに一つ不思議な感覚を持っています。
私は教育系の仕事をしているのですが、主に中高生とよく接します。そこで感じるのが自分と彼ら、何が違うのだろうか?ということです。
私は彼らが「子供だ」という風に感じないのです。大人のように感じられます。
もっと言うと、彼らと自分が「同じ」なように感じられるのです。

おそらくこれは私の感覚の問題、です。
元々ADHD傾向にある人は精神年齢が幼く、実年齢の2/3くらいと考えるのが良い、ということです。この計算で行くと、私の精神は20歳になっていません(笑)
ただ、それとは別に、私自身の心が「中高時代」で止まっている、そんな感じもしています。

私の中で最も大変で、最も面白かったのは、ある意味で中高時代です。
そこには多くの人がいて、多くの物語があって、そこがとても楽しかった、そのように感じます。
世に出ている多くの物語は「学生時代」を描いているものが多いのですが、それも影響しているのかもしれません。私は「見たものを写し取る」力があるので、漫画を多く見た分、自分が学生であるという錯覚をしているのかもしれません。(院生なので学生ではありますが)

摂理に来ても、この「学生」の感覚が拭えない、ということはありました。「物語」を求め、多くの「出来事」を求めている感覚。

タイトルに書いた「大人になるのはいつか」という問題。
私なりに答えを出すなら何かを成し遂げようと動き出す時、人は大人になるのだと思います。
子供の頃は色々なものを「与え」られ、その中で自由に生きてきました。自分の将来を考えず、今ある「様々な刺激」を甘受し、あるいは「刺激」を求めて生きる。その中で「自分を探し、自分を見出す」ために。
だけど、大学に入り、就職するにつれて「自分が何を成すのか」という問題(実際に成すことも含めて)に真剣に向き合わざるを得なくなります。
ひとまず仕事に、と就職活動をする人も多いですが、最終的に「自分が何を成すのか」について、必ずどこかのステージで向き合うことになるわけです。
「自分が経済的に自立して、一人で生きられる」ということを大人と考えることも出来ますが、それよりは「自分の人生を一人で歩き出す」ということが大事なのかな、という感覚があります。経済の自立は結構大変なことですから(特に研究職では)

ここ最近教会の人からも「学生の感覚を捨てるべきだ」と言われたり、バイトでも「もっと軽くないように」と言われたり、仕事でも「子供たちを治める」ことを求められたり、と「大人になる」ことを求められている感覚があります。
しかし、正直なところ、まだこの感覚がよく分かっていません。

私自身がやりたいことはあって、私の「使命」…摂理で任されていること、とは別の、「人生で必ず成すこと」は朧気ながら感じつつあります。
それが「数学」なのか、と言われるとまだ分かりませんが…確実に言えることは「書く」ことは私の使命の中の重要なポイントのように感じています。
私の持つ「感受性」、数学の能力と、研究を通して得られた「根本を見る力」と「厳密に考えること」、「深く向き合うこと」、そして「書く」力と「構想力」。いずれも摂理に来てこのブログを含めて色々な使命を通して得られたことです。これをどのようにして活かせるのか、そしてどのように活かすべきなのか、それはまだ分かっていません。だけど、そこに「私の成し遂げたいこと、成し遂げるべきこと」が隠されているように感じるのです。

そこに深く向き合うこと、それこそ「私が大人となる」最後のステップであり、「大人としての最初のステップ」なのかなと感じています。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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