おはようございます、satoです。
私が仕事をしているときに一つ不思議な感覚を持っています。
私は教育系の仕事をしているのですが、主に中高生とよく接します。そこで感じるのが自分と彼ら、何が違うのだろうか?ということです。
私は彼らが「子供だ」という風に感じないのです。大人のように感じられます。
もっと言うと、彼らと自分が「同じ」なように感じられるのです。
おそらくこれは私の感覚の問題も大きな一因でしょう。
元々ADHD傾向にある人は精神年齢が幼く、実年齢の2/3くらいと考えるのが良い、と言われています。
また、私自身が結構若く見られる見た目と雰囲気であることもそうですし、自分自身割とノリが良くなんでも面白くしようとしてしまう傾向があります。それが彼らとマッチしている部分があります。
それとは別に、私自身の心が「中高時代」で止まっている、そんな感じもしています。
私の中で最も大変で、最も面白かったのは、ある意味で中高時代です。
そこには多くの人がいて、多くの物語があって、そこがとても楽しかった、そのように感じます。
世に出ている多くの物語は「学生時代」を描いているものが多いのですが、それも影響しているのかもしれません。私は「見たものを写し取る」力があるので、漫画を多く見た分、自分が学生であるという錯覚をしているのかもしれません。
摂理に来ても、この「学生」の感覚が拭えない、ということはありました。
「物語」を求め、多くの「出来事」を求めている感覚。
タイトルに書いた「大人になるのはいつか」という問題。
私なりに答えを出すなら何かを成し遂げようと動き出す時、人は大人になるのだと思います。
子供の頃は色々なものを「与え」られ、その中で自由に生きてきました。自分の将来を考えず、今ある「様々な刺激」を甘受し、あるいは「刺激」を求めて生きる。その中で「自分を探し、自分を見出す」ために。
だけど、大学に入り、就職するにつれて「自分が何を成すのか」という問題(実際に成すことも含めて)に真剣に向き合わざるを得なくなります。
ひとまず仕事に、と就職活動をする人も多いですが、最終的に「自分が何を成すのか」について、必ずどこかのステージで向き合うことになるわけです。
「自分が経済的に自立して、一人で生きられる」ということを大人と考えることも出来ますが、それよりは「自分の人生を一人で歩き出す」ということが大事なのかな、という感覚があります。経済の自立は結構大変なことですから(特に研究職では)
教会の人からも「学生の感覚を捨てるべきだ」と言われたり、バイトでも「もっと軽くないように」と言われたり、仕事でも「子供たちを治める」ことを求められたり、と「大人になる」ことを求められている感覚があります。
しかし、正直なところ、まだこの感覚がよく分かっていません。
私自身がやりたいことはあって、私の「使命」…摂理で任されていること、とは別の、「人生で必ず成すこと」は朧気ながら感じつつあります。
それが「数学」なのか、と言われるとまだ分かりませんが…確実に言えることは「書く」ことは私の使命の中の重要なポイントのように感じています。
私の持つ「感受性」、数学の能力と、研究を通して得られた「根本を見る力」と「厳密に考えること」、「深く向き合うこと」、そして「書く」力と「構想力」。いずれも摂理に来てこのブログを含めて色々な使命を通して得られたことです。これをどのようにして活かせるのか、そしてどのように活かすべきなのか、それはまだ分かっていません。だけど、そこに「私の成し遂げたいこと、成し遂げるべきこと」が隠されているように感じるのです。
そこに深く向き合うこと、それこそ「私が大人となる」最後のステップであり、「大人としての最初のステップ」なのかなと感じているわけですが…。
この記事を書いたのが6年前になります。あれから私は大人になれたのか、と言われると「間違いなく大人になりつつある」けど「まだその感覚がわからない」という状況です。
まず、「自分自身のことを理解し、コントロールできるようになってきた」という点はあります。以前に比べて自己理解と自己受容が大きく進み、安定してきているのを感じます。
無論波はあるのですが、それでも前ほど揺らがなくなっている(揺れている自分を認める)ようになったなぁと。
そういえば、久々に会った人からも「落ち着いてきたね」と言われることが多かったなぁ…と。
その一方で「子供の頃の感覚が残っている」というのは間違いなく…むしろ近くなっている気もします。
おそらく「自分の根源と向き合っている」のと「自分の好きを前面に出す」ということをしているからなのかもしれませんが…。改めて考えてみると、私自身が好きなものや傾向は「子供の頃に体感した良い思い出」に由来していることが多いです。おそらく追体験したいんだと思います。
私は「一度いいなと思ったものはずっと繰り返す」傾向にあるので(例:同じ店に行ったら同じものを頼むことが多い)、その一環かもしれません。
そして、「人生で成すこと」ですが、これは正直まだ掴めていません…。
ですが、その掴み方は以前よりはっきりしてきて「神様に祈って相談すること」「聖霊の感動に従うこと」「人にも相談してみること」…これに尽きるな、と思いました。
こればかりは今年だけで完結するものでは無いので、続けて探してみようと思います。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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