どうして、私に聖書が、御言葉が必要なのか?

おはようございます、satoです。
最近、改めてどうして御言葉が必要なのだろうか?と考えるようになりました。
ちょうど10年近く前に書いた文章があったので、それを再掲したいと思います。

それは、私が誤解していることがたくさんあるから。

私たちは、今まで生きてきた中で培ってきた経験、情報、感性によって「自分の価値観、世界観」というものを持っています。
しかしながら…それは本当に全て正しいのでしょうか?
もしかしたら、私が思っているのとは違うことがあるのかもしれません。

たとえば、自分自身の価値。

たとえば、自分の貴重さ。

たとえば、世界の広さ。

もしかしたら、私たちはまだ知らないことがあるのかもしれません。

たとえば、私たちが生まれている意味。

たとえば、人生の目的。

たとえば、世界の仕組み。

私たちは、まだ知らないことがたくさんあります。そして、それによって「本来得るべきもの」を得られなかったとしたら…どれほど悔しいことでしょうか?

知らなくてできなかったことほど、無念なことはない。
これは鄭明析先生が御言葉の中でおっしゃったことの1つです。

だから、私たち摂理人は聖書を読むのです。
私たちがまだ知らない神様の愛、心情、歴史を知るために。

だから、私たち摂理人は御言葉を聞くのです。
私たちが知らない神様の計画、将来、行なうべきことを知るために。

御言葉の中に、神様はいらっしゃいます。
神様の愛、息遣い、心情、すべてが込められています。
それを知るために、私たちは今日も御言葉を読むのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。