satoの数学小説シリーズ「真理の森の数学セミナー」絶賛更新中!

天でも地でも求められる「誠実さ」

天でも地でも求められる「誠実さ」

おはようございます、satoです。

ここ最近明け方が不調で、それに連なってどうもスッキリしない生活が続いていました。
その様子を見て最近教会に来た人に「だんだん不安定になっていますね」と言われ、そのことについて考えるようになりました。

自分の中ではうまくいかないところはあるけれど、前より状況は改善されて、次にすることも決まっているから比較的調子が良いと考えていたのですが、その言葉を聞きながら改めて自分を点検してみたところ、たしかに「揺れ動いている自分」がいることが分かりました。
より詳しく見てみると「人の言動に揺れている」自分がいることに気づきました。

確かに、塾のバイトでもやっていてどこかスッキリしない、ということはありましたが…よくよく考えると「生徒の目線を気にしている自分」がいました。生徒に嫌われないか、それを心配して行うから上手く行かず、ただ消耗していたという感じです。
また、私が「不安定になっている」と言われたきっかけも人の言葉を気にしていた、というより根本的には「その人に嫌がられないか気にしていた」ということでした。

そう、私は昔から「人に嫌われないか」を気にして生活していました。
過去の悪口を言われた心の傷の影響で、人に嫌われることが怖くなっていました。
今でもメディアにある「批判的な言葉」がきっかけでこの考えが出てしまします。

でも。

私が神様に学んだのは神様がどう思われるかを基準にすることでした。
神様が喜ばれるなら、他の人が何を言おうが大丈夫なのです。
それに、人の言葉が正しかったとしても、「神様がおっしゃること」と「人が話すこと」ではやはり違います。それは神様は私を本当に愛してくださっているということ、誰よりも私の愛を受け取り、私と深く対話し、私との経緯が多い方であるということにかかっています。
私のことをよく見ていて、よくご存知で、愛してくださる神様。
その神様が思うことなら、やはり聞き従いたくなるものです。

でも、その考えを忘れてしまっていると、人に揺れ動いてしまいます。人の言葉は正しくても、自分のことを全ては知らないのです。疎外感を抱くのはこの「分かっていない」というのがきっかけなのです。…全知全能な神様じゃないんだから、知らないのは当たり前です。
自分のことをよく知らない人と、自分のことをすべて知っている神様。果たしてどちらの言葉を基準にすべきでしょうか?

そして、その神様が喜ばれることの一つが「誠実に行うこと」。
上手く行かなくても、気分を害させたとしても、誠実に自分がすべきことを行い、真心を込めて人に接すること。
そうすれば、人は自然と私のことを信頼してくれます。…いや、それ以上に「私が」私を信頼します。人は騙せても、自分の良心は騙せませんからね…。
誠実に、本当にその人のことを見て取り組む。それがバイトにおいても最も大切なことである、ということを経験しましたし、これまでの様々な経験を通しても実感してます。そう、たとえ人の心を傷つけかねないことをしたとしても…自分がまずは誠実にその人のことを想って接することが大事なのです。

それが出来るようになるには、やはり「基準を神様に」置くことが大事。
揺れ動くことのない心、自分に対する肯定感と自信があってこそ人のことも愛せますからね。

…私の愛の基本をもう一度見直せてスッキリしました。おかげで、今日の明け方後の賛美と祈りはとても深く熱く行えました(^o^)
自分を見つめ直す時間を持てたことに本当に感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

日常生活カテゴリの最新記事