神様の権勢と自分を信じること

おはようございます、satoです。
私は摂理の教会に来てしばらく経った時、生活の中で御言葉を行うことに対してとても「つらい」と感じていました。
どんなに御言葉を聞いてもこのつらさ、寂しさをなくすことができませんでした。
どんなに御言葉を読み返しても、たくさん神様を呼んでも、その時は神様を考え、嬉しくなるのですが…そのあと段々と考えなくなるのです。
どんなに祈っても「神様の権勢」が悟れませんでした。

しかし、ある時のお祈り会でその理由がわかったのです。それは「神様に対して信じきれなかった」ことでした。
神様を信じないから、摂理を走りきれない。御言葉から力を受けられない。神様の権勢が悟れない。
この事を告白し、自分の不信仰を悔い改めたとき、今まで感じていた聖三位が大きく感じられたのです。
そりゃもう…言葉にできないくらい大きく。鄭明析先生の御言葉で「神様の価値を知る人は神様を大きく感じる」とありましたが、まさにその通りでした。

私の口はこのように告白していました。
「このように偉大な聖三位にまみえることがどれほど栄光で、喜ばしいことでしょうか!
そばにお仕えできることに感謝します。」
私の脳はこの言葉を完全に理解してはいないのですが、それでもこれが「喜ばしいことだ」とは感じたようです。
これもすべては先に聖三位を愛し、仕え、イエス様の体となって御言葉を伝えてくださった先生のお陰です。
そして、節食して祈った先生の条件ゆえ、神様を近くできたのです。

ところで、このように神様を信じることはできるようになってきたのですが…。
「自分自身に働きかけたことが神様の働きであること」「神様が自分を愛して良くしてくださっていること」をどうしても疑ってしまう自分がいます。
どうしても、自分自身に自信が持てないのです。
特に「自分が良い状況になる」ほどそうなりがちです。自分が楽しかったり、想定していなかった良いことが起こったり、自分に何か祝福が来るほど…。本当にこれで良いのか?ってなってしまうのです。
しかも、この疑心暗鬼によって祝福を逃してしまうことがあまりにも、あまりにも多かったのです。

だから、まずはこのことを悔い改めないといけない…と今日御言葉を聞いて思ったのです。
もちろん自分が完全であるはずはないのですが、自分が悪くなる、期待を裏切ってしまう、と考える心を悔い改めないといけないです。そうしてどれくらい神様からの祝福を逃してきたことか…。
とにかく、まずは神様が良くしてくださるところから逃げないこと、そこからですね…。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。