こんばんは、satoです。
今日ふと思ったことなのですが…。
よく宗教を信じることに対して、「あれは心が弱い人がするものだ」という声を聞きます。摂理に対してもそのような声があがっています。
しかし、実際には…見えないものを信じることって結構精神力が必要です。なんせ見えないから「確信ができない」。見える人を信じる方がまだ楽だと私は思います。
よっぽど確信していないと、御言葉は行えません。
逆を言うと、確信した人は決して揺れません。そして火のように行います。
現に、キリスト教を受け入れた日本人は到底人が受けるものではない拷問を受けながらもひたすら神様を賛美していました。そう、あの長崎四十八聖人のように。
もしかしたら、「その言葉で弱い心が慰められる」という考えもあるかもしれません。あるいは「信じれば救われる」と楽に救われることを考えるかもしれません。そういう新興宗教は結構多いです。
しかし、この摂理の御言葉はそうではないです。むしろ…「逃げるな、立ち向かえ!」ということがほとんど。
「学校を辞めるな、仕事を辞めるな、その中で神様を信じて行いなさい、私が共にする」
そういう御言葉がほとんどです。もちろんただ「しろ!」と言って放置するのではなく、「私が共にするから、できる」と保証をしてくださっているのですが。
だから、摂理を生きるためには、イヤでも「自分と向き合わなければならない」。できない自分、御言葉と矛盾する自分。もっと言うと「向き合いたくない」自分と。
それは…決して楽なことではない。
それでも、御子が共にしてくださるから、最後には勝利できる。
そうして「私の心」は強くなっていくのです。
磨き削られ、そして、天の新婦となる。
それは並大抵のことではない。並大抵の精神ではできない。
そういう生き方なんです、摂理人は。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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