もし私が摂理にいなかったなら…

おはようございます、satoです。
私は大学生の頃から摂理に来るようになってから、それなりに長い期間信仰生活をしています。
正直言って生活が摂理の教会と密接に関係している、というくらいには摂理に根付いていると思います。

どうしてそう考えるのか、というと。

摂理に来るようになって「自分のことを深く考える」ようになったことで、数学に必要な思考力が身につきました。
考えることが楽しくなりました。このことによって数学の研究ができるようになりました。
また、摂理に来て「色々な人と積極的に話すようになった」ことで、だんだんと人と話すことに慣れてきて、今では人に物を教える仕事をするようになりました。
そもそも「責任を負うことが嫌」だった私は「教師」という仕事は絶対にしたくないものでした。まず間違いなく避けていたと思います。
それが、今では教師という仕事を非常勤で経験するようにまでなりました。向いているかどうかは別ですが…笑

こう考えると、今の私は「摂理にいたから」こうなったと断言できます。

では、私がもしあの時「摂理にいなかった」なら、どうなっていたのでしょうか…?
こんなことを考えても仕方ない、という話もありますが、個人的にはちょっと考察したい話なんですよね。
「いかに自分が神様によって変化したのか」

まず、摂理にいる前の私を見てみると

  • 基本的に人より物に興味を持つ。興味のあるものを見たかったり、やりたかったりするから人と一緒にいる。
  • それでいて、人と一緒にいるのはそれなりに楽しい。わいわいしている場所が好き。
  • 漫画、アニメ、ゲーム大好き。自分の世界に没頭している。
  • 結構引きこもっていた。何もないとネットで動画を見続けていた。
  • 数学の本は読んでいる。数学の勉強はしたいと思っている。だけど、勉強の仕方が分かっていなかった。
  • 気になることがあったら声をかけてはいる。でも、一度離れると関係を継続するのは苦手。
  • ジャグリングサークルに入っていて、そこの人たちとは気が合っていた。
  • 自分の人生について希薄。人生は一生の暇つぶしだと思っていた。
  • ゆえに、色々な世界を観測し続けたいと考えていた。
  • 「好奇心」で危険なことをしそうなところがあった。人は傷つけないけど、自分については無頓着。

という感じでした。半分くらいは今の自分にも該当するなぁ…笑
違うのは「自分がないので、人の誘いを断ることはほとんどなかった」ことと「数学の勉強の仕方が分からなかった」ことだと思います。

このことを考えるとまず最初に浮かぶのはサークルの人たちとずっと遊んでいただろうな…ということです。
サークルの人たちは基本的に気が合う人が多かったので、サークルに行って拙いながらマジックもやって、ジャグリングもやって、飲み会に行って、遊んで…という日々を過ごしていたと思います。
そして、その人たちの進路を見ながら、自分も進路を決めていた気がします。

数学の勉強は続けていたと思います。しかし、博士課程まで行くかどうかは怪しい気がします。
私が数学の勉強ができるようになったのが摂理に来てからなので…勉強の仕方が分からず、それでいて自主性のなかった私は修士課程で修了していたのではないか、と考えています。

でも、そこからの未来が見えないんですよね…。
そもそも、どこに就職していたのでしょうか…。実は、私が教職を取るようになったのは博士課程からなので、教師という選択肢はありません。そうなるとニートまっしぐら…?
実家に帰って地元で就職していた可能性が高い、かもしれません。

仮にどこかに就職していたとしても、人間関係への恐怖は消えていなかったので精神的に辛くなって心の病気になっていた…という可能性は高いです。あるいは、そこから逃避するためにさらにゲームにハマっていたかもしれません。

こう考えると、この私は「今摂理にいる自分」と近いように見えて、実際のところ全く違うということが分かります。
改めて、摂理に来て色々な部分が救われたんだなぁと実感します。本当に感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。