私が一番深く祈れる、と思う時

おはようございます、satoです。
今年に入っていろいろなことを試しながら、より自分の信仰が安定するような生活スタイルを模索しています。
ちなみに、現在一つ構想があって、それが「私の部屋に大きなホワイトボードシートをつけよう」ということです。私の部屋の壁の一つが結構広いスペースになっていて、それを有効活用できそうなんですよね。
何かあったら気軽に絵を描けるし、数学のアイデアも書けるし、信仰において気をつけることも書けるし、予定も書けるので、色々便利そう…ということです。
ちょっとお金は使いますが、個人的にはとてもいいアイデアだと思うのです…果たして実現可能なのかどうか。

この模索も功を奏して、最近はある程度信仰の安定につながっています。
一方で、お祈りをすることにはかなり苦戦しています。しかし、ここ最近「神様の前に本心で、深く、切実に祈れる時」があると気付きました。
それが「神様の心情に触れた時」です。

神様が全知全能でも、神様がしてくださり願われても、できないことがあるということを知らなければなりません。
[ローマ人への手紙1章28節]の御言葉を読むと、「神様も主も、人が信じることを嫌がったので、その失われた心のままにしておいた」と書いてあります。
全知全能なる神様でも、絶対者でも、本人が信じることを嫌がったら、神様を信じている途中でやめます。主を信じ従っていたけれども、本人が嫌だから離れて行きます。切実に救おうとしても、本人が嫌がったら仕方がありません。

2024年3月17日主日礼拝の御言葉「1.解いてあげよう 2.神様がすべきこと、人間がすべきこと」より

特に、今週礼拝の御言葉でこの話を聞いて、神様は人間に自由意志を与えて、その行い通りに報いられるように創造しておかれたからこそ、できないこともあるということを改めて知りました。
この視点で改めて旧約の預言書を見てみると、神様がイスラエルに対してどういう思いでこの御言葉を伝えられたのだろうか…と言葉にするのが難しい、そんな心情を感じます。一言で言うなら哀切な思いで、神様に立ち返って欲しくて伝えている、と言う感じです。でも、それだけでなく…

小預言書に書かれていた時代、イスラエル民族は神様から離れ、自分の思うまま偶像に仕え、不正を行なって民のうち弱いものを虐げ、時に人を殺すような…そんな生き方をしていました。
そんなイスラエル民族に対して、神様は

14:1イスラエルよ、
あなたの神、主に帰れ。
あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。
14:2あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、
「不義はことごとくゆるして、
よきものを受けいれてください。
わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。
14:3アッスリヤはわたしたちを助けず、
わたしたちは馬に乗りません。
わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって
『われわれの神』とは言いません。
みなしごはあなたによって、
あわれみを得るでしょう」。

口語訳聖書 ホセア書14章1−3節

と、神様に立ち帰るように話されました。
これはイスラエル民族の罪を赦し、もう一度神様を信じて生きなさい、と言う神様の愛でもありますが、同時に神様を信じることは神様がやらせることができない自由意志の範囲であるから、神様は呼び求めることしかできないという事でもあります。神様が人の心を変えることは、人に与えられた自由意志を奪うことと同じ…だから、神様は「呼び求めることしかできない」のです。

私はこの心情に触れた時に涙が溢れました。あまりに辛いその心情を感じて泣いてしまいました。
そして、神様にこのことを告げて、少しでも慰めになれたら…と祈るのです。
こういう時の祈りは、自分の率直な思いを告げながら、神様の本当の思いを代弁している感じがして…本当に深い次元の祈りになっているような気がします。

まずは、私が自分の自由意志で神様を愛して、神様の慰めとなれたら…と思っています。
そして、もっと深く祈って自分の信仰を堅く守りたいです。そのためにもっと環境を作りたいですね…(´っ・ω・)っ

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。