「あなたは悪人を非難できますか?」

おはようございます、satoです。
最近、色々なニュースを見ていて思うことがあります。
それは「悪いことをした人に対するバッシングが激しいのではないか?」ということです。

例えば、何かしらの犯罪で逮捕された人がいるとします。
すると、このことがニュースになった途端にマスメディアやネットの中で必ずと言っていいほど「個人情報」が流出します。
その人がどこに住んでいるのか、その人の家族構成…etc。そして、必ずと言っていいくらい「家族に取材しよう」とする記者がいて、そこで「この人は子供の時どんなことをしていたのですか?」とか根ほり葉ほり聞いてくることがしばしばです。
(もちろんすべてのメディアがそうだ、というわけではありません。)

また、逮捕された人の家族が周りから「犯罪者の家族だ…」と非難されることも多いです。
このことで、当人はもちろん家族までが社会で生きられなくなることもあるのです。
特に日本の社会は「人間関係」に強く依存しているため、この影響がとても大きいです。

一方で、以下のことを考えてみます。
まず、誰が「自分の家族に犯罪を犯してほしい」と考えているのでしょうか?
その人が逮捕されて、一番傷を受けているのは「その人の家族」ではないでしょうか?
その人を愛で育ててきた親、その人となんだかんだで親密にしていた兄弟姉妹、その人を見守っていた親戚…。その人に近しい人ほどショックは大きいと思います。
そんな人に対して「あの人は犯罪者の家族だ…」と非難する…果たしてこれは正しいことでしょうか?

そして、逮捕された人が本当に「悪いことをした」ということができるでしょうか?冤罪事件が本当に多いです。
触られたかどうかは最終的には「被害者の主観」によって決まるところがあり、かつ「被害者」が弱い立場として扱われ、そちら側に偏った判断がされがちだからです。
このように、その人が本当に「犯罪を犯したのか?」はわからないのです。
(…冤罪を訴えていた人が真犯人だった、というパターンもありますが)

もし、その人が犯罪を犯していなかったとしたら、非難の言葉を言うでしょうか?
真実がわかったとき、その心は苦しくならないでしょうか?

もう一つ、「逮捕された犯罪が本当に悪とされることなのか?」という疑問もあります。
もちろん、人を殺すことや盗むこと、人をだますこと、性犯罪。これらは神様の法からも「悪」とされることです。律法の時から今に至るまでそうです。
しかし、時には「正しいことをしていたのに、世の中が悪とみなして罪人扱いされる」こともあります。

たとえば、ネルソン・マンデラ。彼は南アフリカの人種差別を撤廃し、ノーベル平和賞を受賞しました。今、彼を「悪人だ」という人はいないでしょう。
しかし、彼が若い時に反アパルトヘイト活動に身を捧げ、撤廃のための軍事組織の司令官をしていた時、彼は「国家反逆罪」として逮捕されました。そして、27年間投獄され続けていました。その当時、果たして「彼は正しいことをしていたのに、国家によって罪人扱いされた」と考える人はどれくらいいたでしょうか?たぶん「彼は危険な犯罪者だ」と考えていた人が大半だったのではないか、と考えます。

つまり、世の中が悪とすることは「時代によって変わる」のです。当時は罪人扱いされたけれど、今では英雄、勝利者、善を行った人として見られているケースは多くあります。ネルソンマンデラ然り、ルター然り、ガリレオ然り…。
(これは逆もあります。つまり世の中が成功とすること、良いとすることも「時代によって変わる」のです)

結局、何が本当の善で、何が本当に悪なのか?
鄭明析先生は明確におっしゃいました。
「神様の御言葉を聞いて従う人が善であり、信じず従わないことが悪だ」と。
永遠に存在なさる神様。本当の善と悪は神様のみが知っていらっしゃいます。

では、改めて考えてみましょう。
今目の前に「悪人とされている人」がいたとします。
…その人に非難の言葉を浴びせることができますか?

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。