「数学を突き詰めると、信仰に至る」
この主題を中心として、数学の性質やその研究過程、宗教に至った数学者、数学者の気質など様々なことを書きました。
この一連の記事の結論として、今まで書いたことを踏まえて「数学とは何か?信仰とは何か?」を改めて振り返り、「数学を突き詰めると信仰に至る」ということについて述べたいと思います。
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数学とはどういう学問か?
数学という学問は「数や図形について研究する」学問ですが、その数や図形とは「何かしらの実体を表す象徴・記号」です。
数学というのは、様々な操作を「記号」で表し、共通の特徴を持つ操作を「記号の操作」によってまとめて考えていく、形式的思考の学問、ということになります。
たとえば、「右に3つのリンゴ、左に2つのリンゴがある。全部で何個のリンゴがあるか?」や「3人のグループに2人仲間が入った。合わせて何人のグループになったか?」など、という問題はすべて
という数式で答えを出すことができます。
最初の問題だったら「右に3つあるものを左に動かしてから数える」、「右から数えていく」など様々な考え方がありますが、そのすべての操作が「+、つまり加える」という操作に集約されます。それゆえにという数式で表すことができます。
また、人間とリンゴには色々な性質の違いがありますが、「数える」というところにおいては人間でもリンゴでも同じです。なので、二つの問題は同じ数式で答えを求めることができるのです。
形式的思考を考える学問であるがゆえに、厳密性というものが自然と現れます。
「これでもいいし、でもこっちもいい」という曖昧さはあまりなく、あるのは「正しいか、否か」になります。
すべての記号は一つの定義が定められていて、少なくともその理論の中で意味を変えることはありません。
それゆえ、数学を「堅苦しい」とか「窮屈」と感じる人もいるでしょう。数学の主張に対する答えは「正しい」か「間違っている」かのいずれかしかありません。
このようにして、数学は「普遍/不変の真理」を追求していきます。すべての出来事に共通する「法則・実体」を数式という記号で表現していくのです。
しかし、この「実体を数式で表現する」という過程にはその問題を考えた人の思想というのが少なからず入ってきます。その人が「実体」をどのように捉えたのか(つまり、その人の「ビジョン」であり「哲学」)、もっというと数学観がその人の理論に現れるのです。
それは、数学の論文の体系が「定義から始まり、定理の証明を繰り返す」という体系的、演繹的なものであったとしてもです。そこに「どのように問題を考えたのか」という情報は書かれていませんが、数式を読み解くうちに少しずつ見えてくるのです。
数学の論文を読むというのは、「書いた人の思考を読み解く」ことに他なりません。最も、これは簡単なことではないのですが…。
信仰とは何か?
上の話について、聖書を照らし合わせて考えていきたいと思います。
数学というのは現実に起こる出来事に共通する「実体」を数式で表現する学問である、ということを書きました。
この現実世界の法則というのは、唯一神である神様が創られたものです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。-ヨハネによる福音書1章1-3節
つまり、数学者(それだけでなく科学者、ひいてはすべての「真理を求める」人)は神様に触れていくことになります。
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。-ローマ人への手紙1章20節
数学の理論もその人の思想、哲学、ビジョンを表しているように、この世界の法則も「神様の思想、哲学、御心」が表れます。
法則というのは決して無機質なものではなく、神様の性質である「調和」と「愛」が満ちたものです。
たとえば、すべての法則が「人間を生かすように」できている、という「人間原理」という問題があります。神様がいるということ、この世界の法則を神様が創ったということを認めるならば、これは「人間が生きられるようにすべてを作った」という神様のメッセージに他なりません。
イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。-ルカによる福音書18章15-17節
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。-マタイによる福音書5章8節
これらの聖句にあるように、より純粋、一途といった「幼子のような気質」を持った人は神様を見、天国に行くことができると神様は言われました。
この純粋さ、一途さはまさに数学者が持っている気質の一つに他なりません。
前に挙げなかった例として、グロタンディークはスキームなどの革新的な理論の発想において
幼子のような単純な発想で
と表現していました。
数学における発想の根源が信仰における大事なところと繋がっているのです。
ゆえに、数学者が数学を突き詰めた先に「見えない霊的な世界」、「神様」、「信仰」に至るのは自然なことです。最も、それが「天書」という形であったり、自然信仰であったり、宗教の違いはあるのですが…。
数学に必要な「信仰」
偉大な数学者の共通点に藤原正彦先生はいくつかの条件を挙げていました。
その中の一つが「情熱」であり、そこに「信仰者」が多いとも書いてありました。
事実、数学において歴史に残る結果を残した人の大半はキリスト教を信じていた、もしくはユダヤの血統を持っていた人が多いです。(これは数学以外の科学においても同じ傾向にあります)
この二つはいずれも「唯一神」を信じ、神様に祝福されたところがあります。
また、それ以外の宗教も含めると、何かしらの信仰を持つ人がほとんどと言っていいと思います。
聖書には信仰について
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。-ヘブル人への手紙11章1節
と書いてあります。これは「実体」を捉え、「ビジョン」に基づいて数式を構成し証明(正しいかを確認)していく数学の研究過程と一致します。
つまり、数学は「信仰」なしには成り立つことがないのです。
このことも、数学者に信仰を持つ人が多い理由の一つなのかもしれません。
以上のことから、「数学を突き詰めると信仰に至る」ということを私は主張します。
…「これは数学だけに言えることなのか」という疑問を持つかもしれません。それは正しいです。
数学という学問の本質は「考える」こと。「考える」ということは生きること。
そう、人は生きているならば必ず何かしらの信仰が必要になるし、一つのことを突き詰めるならば神様に通じるはずなのです。事実、成功者の話にはすべてでないにしろ神様の御言葉と共通することが含まれています。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。-伝道の章3章11節
人間が見えない将来、そして永遠を想うのは人間が有限で儚い存在であるから、という話はよく聞きます。しかし、この話はよくよく考えると違和感があります。
人間以外の動物も植物も…生きとし生けるものにはすべて生きる時間が限られています。しかし、動物も植物も、人間以外には将来を憂えたり、死んだ後のことを考えるものはいません。
人間が永遠を思う心は「神様が与えた」、永遠に生きる霊が存在するからなのです。
見えない世界を考える数学。
そして、見えない将来を考える人生。
そこには永遠に生きる霊という存在が不可欠です。
それを知らないまま生きるなら苦しいでしょう。なぜそれを考えればいいのか、どこに保証があるのか分からないまま生きているから。
数学者の中には精神を病んでしまった人もまた多いです。それも、この「自分がしていることの保証」が分からなかったからでしょう。
むしろ、数学者は厳密であるゆえに、この問題を避けることなく向き合ったのだと思います。しかし、このことの答えは「神様」以外に解決できるものではありません。
今数学をする人に、生きる人に必要な信仰というのは、「すべてを保証する神様」を認め、その想いを受け入れる、そういうものなのだと、摂理にいながら思うのでした。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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