人を導くこと、育てること。

おはようございます、satoです。

教育系の仕事をしていると様々な子供たちと接することになります。真面目な子、素直な子、元気な子、やんちゃな子、お調子者、頭のいい子、生意気な子、ひねくれもの…。

普通に何もしないで接するなら、どんな子でも可愛いものです。合う子がいたら近づくし、合わない子とは距離を置く。これは大人同士でもそうでしょう。

ところが、教育系の仕事をするとそのようなことができません。何故なら「彼らを目標にまで到達させる」助けをする必要があるからです。

勉強をしないなら、勉強をさせる。

落ち着かないなら、落ち着けるようにする。

しっかりと人の話を聞いて、反応する。

そのように、社会で必要な振る舞いと心、考えを作ることが教育系の役割と言えます。

そして、これをするためには「子供たちと向き合い、しっかりと自分の意思を伝える、気持ちをぶつける」ということをしなければなりません。…これは、実は今まで私が避けてきたことでした。

ほどほどに仲良く、楽な関係。これを構築することは簡単ですが、それを越えて自分の意思を伝え、相手に影響を与え、変えられるようにする、というのは本当に力がいります。

私がこの仕事を始めた最初の頃、本当に自分の話がうまく伝わらず、子供たちがずっと騒いでるという状態が続きました。少々怒ってしまいましたが、あれこれ大きな声を出したり、時には近づいてはっきり話すことで最後の方はなんとか静かになりましたが…。終わったあとには

「もう、全部投げ出したい…」

というくらいの血気が出ていました。本当に恥ずかしい話ですが…。

「自分の指導能力と経験不足」、といえばそれまでですが、それで落ち込んでも始まらないので「これは何を悟らせようとしているのだろう?」とお祈りをしました。

その時分かったのが「このように、人を育て変えさせていくのだ」ということでした。

人を育てる、ということは未知の土地を開拓していくことと同じです。特に子供たちはまだ成長途中。多くの未開発の部分があります。そこを私たちがよい方向に導くのです。

しかし、彼らには彼らが元々持っていたものがあります。悪いものも、よいものも。それをしっかり分別し、良いものは活かして、悪いものは直していく、その戦いです。まるでヨシュアのようですね。

拡大すると、メシアがそのようにしているということです。一人一人と向き合い、ぶつかりながらよい方向に導いていく。…それは決して楽なことでなく、とても心血を注ぐ苦難の道であることを強力に悟りました。

そのように私も導かれ救ってくださったことに感謝しつつ、心に「愛と許しと寛容だ」という賛美が流れるので、そのような天の心を持ちたいと切に願いながら帰って行きました。

あれから数年経ち、多くの仕事をしながら色々技術を身につけました。
以前に比べてわかってくれることもあれば、そうでないこともありますが、私ができることは「根気強くしつこいくらいに話す」くらいだな、と思って頑張っています。
あの頃のことを振り返ると「自分が本当にやらなければならない…」と、自分の責任を過剰に負っていたように思います。
でも、子供たちが変わるのには「それぞれの時間が」必要です。そのことを分かってから、何度も声を掛けつつ、変わらなかったとしても焦らないようになりました。その分、実際に変わった姿を見ると感動することが多いです。

人は必ず成長する時が来ます。それは子供たちも、自分もそうです。
その時まで見守り、諦めず手助けしてくださる神様の愛に心から感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。