摂理は苦しい?楽しくない?検証してみた

おはようございます、satoです。

7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。-マタイによる福音書7章13-14節

この聖句からも感じられるように、天国に行く人は少ないそうです。
それは『天国の道は苦痛と患難だらけだから』だそうです。
一方、地獄への道は苦しいわけでなく、楽しいし自ら喜んで行くんだそうです。これは最近も鄭明析先生が御言葉で話していました。

じゃあ、天国に行くために頑張っている摂理は楽しみがないの?

ってなるじゃないですか><…。

たまに『摂理は大変なところだ、お酒も飲まないし遊ばないし…』とか『御言葉で色々なことを縛られる、青春が失われた』って言う人がいるんですが、果たしてこれは本当か?

今日はこれについて語りたいと思います。長くなりますが、気楽に御覧ください。


まず、結論から述べましょう。
摂理は楽しいです。

『遊ぶのが好きな』私が10年近くいられるのは摂理が楽しいからです。

私がどれくらい遊びが好きかというと、学生時代は家に帰ったら毎日ゲームをしていたくらい遊び好きです。
仕事をするときも常に遊びを求めています。楽しくないとやってられない、それくらいの人間です。
余談ですが、だから勉強は昔から好きではありませんでした。…こんなんでよく研究者になりたいと言っているな…(^_^;)

今でも動画とか見るの好きですし、漫画も好きですし、ラノベも好きです。ゲームだって好きですよ。今流行りのVtuberとかにも興味あります。
ただ、それをすると『苦しい』し『めちゃくちゃ精神的にも霊的にも調子を崩す』からやらないだけです。
(つい最近までこれらにドハマリしてめちゃくちゃ苦しくなったので、もうやらないと思います。まさに『苦しくして悟らせる』でした。
ちなみに、このあたりのことを詳細に語ろうとしても、というか本当は色々悟りも含めてめちゃくちゃ語りたいのだけど、かなり苦しくなるのでここでは書かないと思います)


それでは、こんな私が『お酒も飲めない、遊べない』摂理にどうしていられるのか?
これについて深く考察したいと思います。

まず、私はそこまで酒は好きではありません。なので、お酒を飲めないことについては割と気にしていません。
ただ、お酒の場は好きでした。だって、みんな楽しそうだったから。自分は何もしませんでしたが、みんなのところにいるだけで楽しかったです。

もっとも、これはお酒の場でなくても良い、というのは摂理で知りました。
だって、摂理ではお酒がなくてもみんなこのテンションだから。聖霊に酔っているのでしょうか。

 5:18酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、 5:19詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。-エペソ人への手紙5章18-19節

お酒の場ほど羽目を外すことはありません(あったら、私は怖くて逃げ出しています)が、みんな集まるたび楽しそうです。
というか、集まらなくてもラインを眺めるだけで十分楽しいです笑
最近はZoomでも楽しいです。

不思議なことですが、『御言葉によって縛られている』とは思えないほどみんな楽しんでいます。それはどうしてでしょうか?

また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。-マタイによる福音書8章28節

それは、摂理が自由なところだからです。
むしろ、自由すぎて「自分が何をしたら良いのか分からない」くらいです。


確かに、摂理でしてはいけないことは多いです。
ただ、だからといって「全ての行動を制限している」わけではありません。
歩き方から話し方、言葉一つ一つ、行動一つ一つ、目的一つ一つ、あらゆることを御言葉で縛っているわけではありません。
ただ一部、『自分が破滅するような行動と考え』だけを制限しているのです。

たとえば、お酒は一度ハマると飲まないとやってられなくなるくらいハマります。
そうなると、お金も掛かりますし、その分行動ができなくなってお金が得られません。
お金がなければ生活もままならず生きていけなくなります。
あるいは、精神が壊れてしまいます。

また、以前免許取得の際の授業で見たビデオの話をした気がしますが、飲酒によって判断力が落ち、運転をしてしまった結果事故で人を死なせてしまい、お互いの家族や会社も含めて不幸にしてしまう、ということもありえます。

これはもちろんお酒のリスクの一部にしか過ぎません。
もっというと、特に未成年がお酒を飲むと脳が萎縮、破壊されうるというのは聞いたことがあると思います。
このように「脳を壊す」というのが最大のお酒のリスクです。

脳は私達人間が生きる上で一番重要な機関です。
脳によってあらゆることを判断し、決定し、行動していきます。いわば脳が私達の人生そのものを左右すると言えます。
これを守るために、神様は御言葉で『お酒を飲んではいけない』と話します。
ちなみに、私の場合はこれと同じくらい『ゲームにハマる』ので、ゲームはしてはいけないのだ、と最近悟りました。

このように、神様がしてはいけない、という時には『自分たちに危険がある』ことが多いです。
決して神様が嫌いだから、とかそういう人間的な感情だけではありません。神様が嫌い、という場合それは『人間が死ぬから』です。


反対に神様がしなさい、ということもあります。

それは集約すると

『神様を愛しなさい、愛して生きなさい』

『自分を作り、磨きなさい』

ということです。もちろん週毎に細かい御言葉が宣布されます(今週なら『悟りなさい』)が、基本はこの2つと思ったほうが良いです。

これはどうしてか、というと『天国では毎日神様を愛する』からです。
正確には、神様を愛する人が行く世界が天国といえます。これは結婚した人が相手の故郷に行くのと同じ感覚と言えましょう。神様の故郷は当然天国です。

聖書には神様の国である天国に行くためにはどうすれば良いのか、あるいは神様が好む性格がどのようなものであるのか、詳細に書かれています。

5:16いつも喜んでいなさい。 5:17絶えず祈りなさい。 5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。-テサロニケ人への第一の手紙5章16-18節

6:9わがはと、わが全き者はただひとり、
彼女は母のひとり子、彼女を産んだ者の最愛の者だ。
おとめたちは彼女を見て、さいわいな者ととなえ、
王妃たち、そばめたちもまた、彼女を見て、ほめた。
6:10「このしののめのように見え、
月のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。-雅歌6章9-10節

こういう性格になれるように、自らの行いと考え、性格を作っていくのです。

が、それ以外は全て自由です。言い換えると『神様を愛し、自らを作っていけるなら何をしてもいい』です。
もちろん、遊びもOKです。現実にサッカーもしていますし、大富豪だってやります。大富豪は摂理の中でもやる人が多い気がします。

先程書いた漫画だって書いている摂理の人がいます(こことかこことか)し、アニメだってあります。Vtuberはそのうち出てくるのではないでしょうか。
私は小説も書いていますし、今皆さんが読んでいるように、自由に文章を書き、どんどん考察しています。

ちなみに、私は御言葉を聞いて納得できないことがあればガンガン神様に祈るタイプです笑
今日も何個か分からないところがあったので、素直に聞いて納得できたところもあれば、まだ飲み込めていないものもあります。

話すことも、それが神様を否定するものでない限りは自由です。

だから、みんな楽しいのです。


じゃあ、なんで『天国の道は苦痛と患難』なのでしょうか?

これは一言でいうと自分を作るのが大変苦痛で患難だし、神様の御言葉と世の中の現状が合わなくて大変だからです。

最初の話でいうと、御言葉は基本的に『私達の耳に良い』話だけではありません。場合によっては刺さります。ぐさっと。
それはもう致死量レベルで刺さることがあります。私はよく刺さります笑

そこで、わたしはその御使のもとに行って、「その小さな巻物を下さい」と言った。すると、彼は言った、「取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、には蜜のように甘い」。-ヨハネの黙示録10章9節

それは『あなたはこういうところを直しなさい』と言われるからです。
こういう場合、『御言葉通りにできていない自分』と向き合わなければなりません。
ちなみに、私も最近あることに対してめちゃくちゃ向き合い、実行しようとしてますが正直できていません。端的に言えばそれは『相談する』なのですが、これがかなりハードルが高い。これについて語るとまた長くなるので、カットします。

こんな感じでできないことがあっても逃げられない、必ず克服させようとするのが摂理の御言葉です。
対して、世の中ではこういう時に向き合わず、逃げても良い。むしろ逃げられるものがたくさんある。
漫画やら動画やらは逃げるために使われることが多いです。私はそうでした。
だから、世の中は楽だし、楽しいです。

ただし、これは私の経験ですが、御言葉で言われていることは『生活上必須』なことが多く、できないと社会生活で非常に苦労します。
私の『相談』や『人に心を開く』とかはまさにこのタイプです。これができると社会生活がかなり楽になります。
そういうわけで、御言葉を行うことは結果として社会生活に大きなアドバンテージになることが多いです。
御言葉を実践し、人格を磨いた人が会社でも認められ、評価されるという証は私もよく耳にします。


さて、こちらは会社でも認められ、評価されるという意味で『世の中と御言葉の方針が一致している』例です。
こちらは自分の葛藤、苦労だけで済むのである意味自分次第というところがあります。

ところが、世の中と御言葉の方針が一致しないという場合もあります。
これは世の中は神様を知らないまま構築されていっているからです。

そもそも、日本は神様を知らないですし、何かしらの宗教を信じることはともかくとして、それを人に薦めるということは基本的に嫌悪されがちな国です。(あくまで私の主観)
なので、『神様の御言葉を聞いて、神様を信じてよ!』って言っても(どこかのインキュベーターのように)胡散臭く思われ、拒絶されるのが関の山です。(あくまで私の主観)
その分、話を聞いてくれるのが嬉しいです。(どこかのインキュベーターと違って)本当にその人が救われる道なので。(これは私の主観でない)
実際、御言葉を聞いて、神様を愛して生きると、自分が救われるだけでなく、色々な状況が改善されます。
これは神様が助けてくれるからで、私も破滅的にハマっていた様々なものを抜け出したら、収入も増え、パソコンも買い換えられました。

しかし、それでも神様を知らない人からは理解されにくいことが多く、たとえば

『お酒の場に付き合え!』

とか

『✕✕行くぞ!(✕✕には御言葉的にアウトな場所が入ります。悟ってください)』

とか言われ、行けないと叱責を受けるなんてこともあります。中には神様を知らない人が『どうして礼拝行くの?そんな時間あるなら仕事(勉強、研究)しろ!』とか言われることもあります。
こんな感じで周りから理解されないということがかなりの苦痛です。
特に私のような『人から共感される時に安心する』人にとってはかなりの。

ただ、ここで神様の御言葉を実践すると大きく成長するだけでなく自分の命も救われます。
鄭明析先生の例で言うと、『人を殺すのが当たり前、むしろ殺してこそ自分が生きる』というような戦場で、敵と遭遇した時に

『敵を愛しなさい』

という神様の御言葉が聞こえました。
相手が銃で打たれたら自分が死ぬ、そのような極限状況で先生も葛藤しますが、意を決して銃を捨て敵を愛するために向かったところ、なんと相手も銃を捨てて、先生を迎えたのです。
こうして、先生は戦場で人を殺さずに、むしろ救護することで生かして帰還し、今も『人を生かす』御言葉を伝えています。

こんな感じで、周りの言葉より御言葉を優先させた結果好転したという話も私はよく聞きます。

…人との摩擦を何よりも嫌い、ストレスに感じる私が『人に相談する』ことや『人と意が異なることを話す』ことをする、これは今後の課題ですね。


特に日本人は『群れを作って生きる』ことが得意で、そのように生きる気質があります。
そういうのが嫌な人は摂理に来てもそこまでストレスに感じない気がします。なぜなら、摂理は個人がよくやればいいところなので。むしろ伸び伸びして感謝している気がします笑

しかし、そうでない人、むしろ皆と一緒にいるのが良いという人にとっては、ある意味摂理は大変なのかもしれません。
世の中のほうが”今は”多数派だからです。
ただ、そういう人でも神様は良くしてくださるし、また、摂理の人たちは皆良い人なので『良い群れ』であることは確かです。めちゃくちゃ優しいし、楽しいし、一緒にいてストレスがない。

動画を見ることは確かに楽しいです。しかし、それでは『生み出す喜び、楽しさ』を味わえない。
私は自らと向き合い、悟り、自らを作る、あるいはこの文章を作る中に『生み出す楽しさ』を感じています。
それはきっと、摂理に来なければ感じられなかったもので、また動画を見た時にはなかった『実体』が残るものです。
今、この文章を作ったことは、後々まで残ることでしょう。文章としてこのブログが存在する限り。そして、神様との経緯として永遠に。

摂理は確かに楽しいです。

それは世の中の楽しさとは違った、『産みの苦しみはあるけれど、実体を伴った楽しさ』なのです。
その実体は単なる感覚でなく、自分の精神、霊魂に至るまで作られる喜びなのです。
それを楽しめるかどうか、それが摂理を長く走るコツなのかもしれない…と、私はそう思います。

私は摂理を離れる気はサラサラありませんよ!?こんなに楽しくて、生きられる場所他にありませんから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。