洗脳なのか、信仰なのか、それが問題だ

おはようございます、satoです。
突然ですが、私はキリスト教福音宣教会、摂理という宗教に所属しているのですが、そこにいると…あるいは宗教に関する話を聞くと洗脳されている!って話がよく出ています。
これに対して、私を含めた摂理の人は「自分達は洗脳されてない!」という風に主張しています。
しかし、私自身はこの主張に対して「本当かな???」と疑問を持っていました。これは他の人が洗脳されているのでは??というより「自分自身が洗脳されていないとどうして言えるのだろうか?」という問題提起です。

これは洗脳なのか?について考察

そもそも、洗脳されている人が、洗脳された!と主張することはありません。そんなことを考えないからです。
「洗脳された!」と言っているのは、一度所属していたところから離れて、改めて自分の状態を振り返った時に「あの時の私は正常じゃなかった!」という判断をするからです。

よって、「洗脳されている!」と言われてる場所にいる人が「洗脳されてない!」と言っても、外から見た人が「洗脳されていない」と判断することは難しいというのが私の考えです。
むしろ、私は少なからず洗脳されているのでは???と疑っていた、ところがありました。
それはどうしてかというと、自分がそれまでやりたいと思っていないこと、むしろやりたくないと思ったことでも御言葉で「やりなさい」と言われると、ひとまずやってみようかな…と考えるし、やらなきゃ!ってなるからです。
また、昔の自分の考え、生活、嗜好と比較すると明らかに「選ばない」ような選択を多くしていることもその要因です。

昨今の宗教の中でも高額な献金を問題にしているところがいくつか見られます。
摂理でも献金は(常識の範囲内で)するように推奨されています。その上で「自発的に」しています。
しかし、それも外から見たら「洗脳されてお金を出している」というように見えなくもないです。

この辺り、どのように考えたら良いんだろうか…この感覚をどう言葉にしたらいいのかとお祈りしながら考えていたのですが、ある明け方のお祈りの時に

「これは信仰だ」

という言葉が自分の口から出ました。
そう、明け方起きてお祈りをしているのも、自分が選択しないようなことを行うのも、献金を行うのも、全ては信仰から来るものです。
自分が「こうすることで良くなる」と信じているから、そのように行うのです。
それは洗脳とは…「自分の考えを奪われて、自由意志を失った状態」とは異なる、と私は考えます。

確かに、私は神様を信じることに熱心な方です。(こう見えて)
ちょっと狂気が入っている部分もありますが、それだけ熱心な一面があります。
その熱によって、私は全てのことをしているのです。もちろん、神様の心情に適う範囲で…。
だから、私は「私の行いは洗脳されているのではなく、信仰から来ているのだ」と宣言することができます。

これは他の宗教を信じている人にも言えることと思います。
彼らは彼らで「そうすると救われる」と信じているから、そのようにしているのです。

なぜ「洗脳されている」と考えるのか?

それでは、なぜ「外から見たら洗脳されているように感じる」と人は認識するのでしょうか?
これは次のような要素があると私は思います。

  • (私含め)宗教に対して誤解をしている部分がある
  • 常識や倫理に反するような”異常なこと”をしている宗教がある

宗教とはどういうものかについて

宗教に対して誤解をしている、という話をしていますが、そもそも私自身宗教に対する誤解や偏見が強かったタイプの人間です。とりわけ今は宗教について色々取り上げられている時期でもあるので、様々な誤解も生まれやすい気がします。
ということで、改めて宗教とはどういうものなのかについて考えてみたいと思います。

最初の要素ですが、日本はそもそも宗教を信じている人が少なく、葬式や初詣など一部の宗教的な儀式も「一種のイベント」として消化していることが多いです。
それゆえ、摂理や他の宗教どうこう以前にそもそも宗教とはなんなのかよく分かっていないという一面があります。
だからか、宗教はお金を稼ぐために行なっているものだという(間違った)認識をよく見る気がします。

これは個人的意見(学術的なものとは言えない)ですが、宗教とは本来

人がよく生きるため、人を導くためにあるもの

だと考えています。イエス様が来られた時、その御言葉と行いを持って人々を救うために導かれましたが、その言葉と行いを信じたのがキリスト教です。
同様に、ブッダも人がよく生きられるようにその教えを伝えていき、それを信じた人が集まったのが仏教と言えます。
こんな感じで「人がなぜ生きるのか、どうしたら良く生きられるのか」というものに答えを与えるのが本来の宗教です。
ここで、イエス様もブッダも、あるいは孔子も「金銭を求めなかった」という点に注目すべきで、本来は「宗教」と「お金」は別物なのです。
イエス様はむしろ

21:12それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 21:13そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

口語訳聖書 マタイによる福音書21章12−13節

この聖句にもあるように、「人の信仰を使ってお金を稼ぐこと」を強盗と同じように扱っているくらいです。
(注意:はとを売る者について、はとは捧げ物に使われる動物の一つで、これを使ってお金を稼いでいたのではないか?と推測されます。この観点からの解釈です。なお、これは御言葉でなくあくまで私の意見です)

一方で、「お金を稼ぐ」ことを目的とした宗教団体、宗教人も多くあります。これは新興宗教だけでなく、よく知られている宗教でもそうです。
ある程度は運営費として必要なためお金を得ることはするのですが、度を超えているものも少なくありません。
そして、問題となったり目立つ宗教はお金を多く得ているところが多いです。多くの人が宗教について知るのはニュースで取り上げられるものくらいです。
そのために「宗教で洗脳される」「宗教はお金を稼ぐツール」と認識されているのではないかと考えます。

常識や倫理に反するようなことについて

もう一つの要素「常識や倫理に反することをしている」という視点ですが、これは日本以外の色々なところで見られる現象です。例えば、

  • 生まれた段階で身分が決定され、差別が起きている
  • 自分の身を破滅させるほどの高額な献金を払わせる
  • 餓死したら救われると信じさせて餓死させる
  • 天動説を信じていたり、進化論に反対している(ただし、進化論については誤解した認識の上で反対しているっぽい)
  • 「神様のために」異教徒を殺したり、戦争したりしている

これらは科学的事実という常識や人としての倫理に明らかに反している、と言えます。
このことについては先ほどの「宗教の目的」からは外れている、と私は認識しています。
あと、聖書にもこれらのことを推奨する内容は一言も書かれていません。「にせキリストに気をつけなさい」とは書いていますが「異なるものを信じる人を殺せ」とは一言も書いていません。

この要素について、少なくとも摂理で教えられる御言葉は人間として生きる上で守るべき倫理と道理は一つも反していないと確実に言えます。これについては御言葉を長年聞いてきた私が保証します。
摂理の御言葉を聞いて、共に信仰生活を行えば、人間としての常識と礼節を持って生きられるようになります。
「常識のなかった」私がそのようになったので、これは確実です。

まとめ

で、結局「私は洗脳されているのかどうか」なんですが。
正直私は分かりませんし、そこは重要でないのではないかと思います。
最初にも挙げたように「自分自身では洗脳されているかどうかを判断することはできない」から、「洗脳されていない」とははっきり言えないのです。
一方で、洗脳の有無はさておき「自分自身が良く生きられる」状態ではあると思っていて、これは社会常識的な視点でも、人間として弁えるべき道理の視点でもちゃんとできるようになった(周りから見ても多分そう思われている…はず)と認識しています。少なくとも自分自身が問題を起こす…可能性はありますが、自分の意志で問題を起こそうとは思いません。
むしろ、もっと良く生きたいと思っていますし、人を傷つけるようなことをしたら自分が辛いです。

そういうわけで、人に迷惑をかけないなら今のところは問題ないかな、というのが今回の結論、ということで一つ。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。