聖書を通じての信仰初期の私との再会

おはようございます、satoです。
毎日やっている聖書通読も、新約聖書2周目に入りました。
旧約聖書を短期間にここまで読んだ経験は初めてです。まずこれまで聖書一読しかしていなかった私なので、一年間(正確にはほぼ半年)で二読をするペースは当然初めてなのですが、旧約聖書を一気に通読するのもなかなかないことです。
なんせ、今まで「旧約聖書が分からなくて」止まっていましたから…。

今までは細かい描写とか、歴史関係とか、そう言った知識的なところに関心が向いてしまい、どうしても読み進めることができませんでした。Wikiで調べたりしているうちに他のことも調べていた…なんてことも多く。

ですが、複数のことがきっかけとなって「神様のことをもっと知りたい!」と思って、そこに焦点を置いて聖書を読むことにしたら、だいぶ理解度が高まった感じがします。

ところで、二読目は自分が御言葉を聞き始めてすぐに買った時からずっと使っている聖書を使って通読しています。
一読目は別の聖書を使っていたのですが、それは「一部が破れていて読めなかった」からでした。
しかし、なんとなく二読目は自分の使っていたやつがいいかなと思って読んでいました。
そうすると見えてくるのが「多くの書き込み」です。

実は私、御言葉を聞いた当初はノートを取るという発想がなく、御言葉を聞いたときに「聖書」に書き込んでいました。
また、気になる聖句があったり、気に入った聖句があったり、主日礼拝などで使われた本文の聖句がありましたら、色々な色のペンで線を引いていました。

その中で特に印象的だったのが「?」とついている聖句。
おそらく、自分が当時分からないところに印をつけておこうと思って、そのようにしていたのだと思います。
改めてそこを読むとちょっと面白いところについていたり、逆に「旧約聖書を読んだらそのまんまじゃん!」ってところもありました。

4:23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

口語訳聖書 マタイによる福音書4章23節

この聖句を囲んでいたのですが、そこに書かれていたのが

イエスは医者?

でした。なんというか…笑笑
おそらく「あらゆる病気を癒した」って書いてあったので(現実主義寄りな私は)「医者なのかな?」と思ったのでしょう。そんな気がします。
今にして思えばクスッとなるような書き込みですね。

また、

8:26するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。

口語訳聖書 マタイによる福音書8章26節

これも当時の私にとっては「?」だったのでしょう。おそらくファンタジーを信じない私は、風と海を叱ったら凪になった、という現象が「どうして起きたの??」と疑問に思ったのだと思います。

9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

口語訳聖書 マタイによる福音書9章13節

ここにも「?」がついていました。当時は読んでて意味がわからなかったのでしょう。
これは旧約聖書の次の聖句から来ています。

6:6わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。

口語訳聖書 ホセア書6章6節

この前後を読むと、当時のイスラエルは燔祭の為の犠牲を捧げることをすると同時に人から物を奪い、貧しい人からお金を得ることで富を得ていたことが分かります。
確かに、律法で日毎の燔祭は捧げなさい、と言われていましたが、それ以上に大事なのが「神様を愛すること」であり「隣人を愛し、慈しむこと」です。このことを指摘したのが、ホセア書であり、それを引用したイエス様の言葉だったのです。
これは言い換えると、この当時のユダヤ教もホセア書の時と同じように、人に対する憐れみをすることなく、ただ罪人を罪人として裁いて自分だけ生きようとしていた、ということも分かります。

と、このように今ならわかるようなことも多いですし、今でもわからないものも時たまあります。
ですが、この書き込みを見て一番最初に思ったのが「当時の自分もまた、ちゃんと聖書を解りたいと思っていたんだな」ということです。
この書き込みは、小さいことが気になって先に進めない私に「一旦目印をつけておいて置いといたらいいよ、時間が経つとわかるようになるから」と先輩が教えてくれてやったことだったと思います。
その「?」の書き込みは意外と多かったのですが、それだけ当時から「ちゃんと知ろう」と思って読んでいたんだな…
と、なんだから最初の頃の自分と出会った感じがしました。

そして、その書き込みを見て「ちゃんと知ろうとしている自分を見て神様が微笑ましく見ていた」ような気もしました。
自分がそんな気持ちになったからです。

そのように、今ももがいている自分を見て、神様が微笑んで見ているような、そんな気もします。
色々大変ですが、最初の自分の気持ちも受け取って続けて頑張っていこうと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。