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罪についてあれこれ語ってみます。

罪についてあれこれ語ってみます。

おはようございます、satoです。

最近、自分の中で直さなければならないところが幾つか見えてきましたが、その中の一つが否定的に物事を判断するということです。
私は御言葉を聞いても何もわからない時「自分はこれに反対している」と考えがちでした。
それによって、自分が自分で「信仰を持っていない」と考えていたようです。

ところが、最近気づいたのは私が何も感じられていないのは「反対している、聞きたくない」というより、単に「忘れている」ということが多いです。
むしろ、これに対して「反応できない」自分を見て否定的に考え、「こんな私は嫌だ、聞きたくない」となっているのが多いです。
確かに、御言葉を聞いている時も「とっさのことに反応できない」ということが多いし、集中力がそもそも低く色々なことに流れがちなので、反応できないことが多いですが、実際のところ私の心は「言われたとおりに受け入れている」ことが多いです。
そのことを踏まえると「否定的に考える」というのは寧ろ自分の心を苦しめるだけだと気づきました。
私の心の本心に素直に従うのが一番です。

信仰生活していて一番つらいのは罪を犯したときです。ここで言う罪、とは「神様の願うことと違うこと」と捉えてください。
罪を犯すと「なんでこんなことしてしまったんだろう」と苦しくなって、良心がとても痛んで泣きそうです。
それで悔い改めの祈りをしようとするのですが、肉体が思うように祈れず、心の苦しみがずっと残るんです…。
そう考えると「罪を犯さない」のが一番ラクです。苦しくないので。

…こう書くと「摂理の御言葉を聞いて罪の話を聞いているから、このような心の苦痛が来るのでは?」と考えそうですが、実際には摂理にいようがいるまいが、御言葉を聞こうか聞くまいか、それに関わらずこの苦しみは存在します。
全ての苦痛は罪から来る、と考えても良いです。無論、義を行うときも様々なところから苦痛は来ますが、自分が罪を犯さなければ基本辛くないです。
たとえば…私の場合、人から怒られる、悪口を言われることが多かったですが、それによって辛いと思ったことは意外と少ないです。
ずっと心に刺さって苦しかった…というよりは寝ればすぐに忘れるようなものでした。
私はずっと悪口を言われていたのに、その割にはあまり恨んでないな…と不思議に思っていたのですが、今にして思えば、「悪口を言われた」ことより「それで怒ったり、恨んだり、自分のことを悪く思った」ということで心が苦しかったのかもしれません。
逆に、中学の時自分が失敗したことや嘘をついたこと、その他色々なことをした時にはとても苦痛でしたし、今もその苦痛が残っています。
私が摂理に来る前の話なので、やはり御言葉を聞く前からこのようになっていたのだと思います。

では、どうして御言葉を聞くのか、というと罪が何なのかをはっきり教えてくれるからです。
御言葉を聞くと「罪」が何かを教えてくれるので、自分の心の苦痛の原因が何かについてもはっきりと教えてくれます。

御言葉を聞く前、私はずっと心が苦しかったし、不安でしたが、その原因が何かはっきりと分かりませんでした。
だから、ずっと苦しかったし、世界を恨みそうになったこともありました。
それを、御言葉を通して罪が何かを教えてくださり、その原因がはっきりと分かったことで、過去の自分の苦痛が整理されたし、根本的な解決をしていくことができた、ということがあります。
だから、私の心が救われた、と感じたのでした。

だから、どのような状況にあっても御言葉をくださる鄭明析先生を先生と呼んでいるし、感謝をしているのです。

また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。-ヨハネによる福音書8章32節

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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