推定無罪の原則と自白の証拠性についてのメモ

おはようございます、satoです。
昨今、鄭明析先生の裁判に関連して推定無罪の原則という言葉をよく聞くのですが、この意味について改めて調べたいと思ったので実際に調べてみた上で、色々自分なりに考察をしたいと思います。
ちなみに、現在進行中の鄭明析先生の裁判については、背景等も含めてこちらが詳しく書かれています。

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推定無罪の原則というのは次のようなものになります。

「無罪の推定」とは、犯罪を行ったと疑われて捜査の対象となった人(被疑者)や刑事裁判を受ける人(被告人)について、「刑事裁判で有罪が確定するまでは『罪を犯していない人』として扱わなければならない」とする原則です。
「無罪の推定」は、世界人権宣言や国際人権規約に定められている刑事裁判の原則であり、憲法によっても保障されています。

心にとめておきたい4つのこと 裁判員制度 日本弁護士連合会

つまり、基本的に犯罪を行なったと疑われたり、裁判を受けていてもそれだけでは有罪とならず、「有罪が確定するまで」は無罪として扱わないといけないという考えです。
これは世界基準で保障される原則になります。
はっきり犯罪を犯したと確定している「現行犯」の場合でも、有罪が確定するまでは「犯罪を犯していない」という扱いをしないといけない、ということです。

すべての被告人は無罪と推定されることから、刑事裁判では、検察官が被告人の犯罪を証明しなければ、有罪とすることができません。被告人のほうで、自らの無実を証明できなくてもよいのです。ひとつひとつの事実についても、証拠によってあったともなかったとも確信できないときは、被告人に有利な方向で決定しなければなりません。これを「疑わしきは被告人の利益に」といいます。

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これは裁判中でもそうで、訴えられている側が無実だと証明する必要はなく、訴えた検察側が有罪である確固たる証拠を用意しないといけません。これを「疑わしきは被告人の利益に」と言います。
証拠がない場合は、基本的に被告人に有利になる、つまり「被告人は無実」であると判断しないといけないわけですね。
間違っても証拠を隠滅したから、という判断はしてはいけないんですよ。

「被告人は疑わしい」という程度の証拠しかない場合は、有罪にすることはできません。刑事裁判で有罪方向の事実の認定するためには、「合理的な疑問を残さない程度」の証拠を検察官が提出して、証明しなければならないとされています。
 「合理的な疑問」とは、みなさんの常識にもとづく疑問です。法廷で見聞きした証拠にもとづいて、みなさんの常識にてらし少しでも疑問が残るときは、有罪とすることができません。いいかえると、通常の人なら誰でも間違いないと考えられるときにはじめて、犯罪の証明があったということなのです。

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では、どれくらいの証拠であれば有罪と認定できるかというと、多くの人が持つ常識に基づいて、疑問が残らないくらいはっきりとした証拠です。
言い換えると「客観的に被告人によって犯罪が行われたと見做せる証拠」ということですね。

鄭明析先生の裁判のような性犯罪であれば、次のようなものがこの基準を満たすものではないかと思います。

・被告人の指紋や遺伝子がはっきりと被害者の体や服などに残っている

・実際に犯罪が行われたとされる映像や音声ファイル(ただし、原本に限る)

・実際に実際に被害者の言い分通りに犯罪が行われうるかどうかの現場検証

これを検察側が提出しないといけないわけです。ちなみに、鄭明析先生の裁判の場合、2番目の「音声ファイル」が提出されていますが、

・「スマホを売ってしまった」として物理的な原本のファイルが残っていない

・「cloudに残っている」とされたファイルも間違って消去された(とされている)

・ファイルは複数の機関による調査の結果加工された痕跡が見られる(捏造されている可能性が高い)

というわけで、証拠としては怪しいものになります。また、それ以外の証拠は提出されていると聞いていませんし、実際に犯行が可能だったのかの検証がされたとも聞いてません。

先ほどの無罪推定の原則に照らし合わせると「鄭明析先生を無罪とする」のが妥当…というか、本来ならそうしないといけないわけですね。

もう一つ自白も有罪の根拠とされることがあります。が、これを証拠とするのはかなり怪しい…というのは日本でもさまざまな冤罪が起きていることからわかることと思います。

被告人が自分に不利なこと、罪を認めたという事実は、裁判員や裁判官に強い印象を与えます。
しかし、だからこそ、自白を本当に信用してよいかどうか、とても慎重に検討しなければなりません。
 拷問や脅迫が行われた場合には、そもそも証拠としての資格(証拠能力といいます)が認められません。しかし、そのようなことが行われなくても、ウソの自白をしてしまうことはたびたび起こっています。なぜ、自白をしてしまったのか、その自白は信用できるのか、関係者の話をしっかり聴いてください。

自白は慎重な検討が必要です。

まず、拷問及び脅迫による自白は証拠になりません。例えば、(いわゆる刑事ドラマのイメージですが)長時間拘束して「お前が罪を認めれば刑が軽くなる」「早く家に帰りたいだろう」とかやってもダメだと思います。精神的に薄弱した状態の自白も証拠としてはいけないように思います。
また、そうでなくても例えば相手を陥れることを目的とした自白というパターンもあるわけです。
つまり、自白をしただけでは証拠にならず、その自白の背景や妥当性を他の人の話を聞いた上で判断する必要があるわけです。

以上は裁判における判断基準の話なのですが、これは私たちにも関わることでもあります。
まず、引用したサイトは裁判員制度について書かれたものなのですが、私たちも裁判員という形で裁判に参加し、実際の刑事事件の有罪・無罪を判断する可能性があります。
しかし、これだけでなく「推定無罪の原則」は私たちが常に認識していなければならない考え方でもあると思っていて、これはどんなに逮捕された・犯罪に関わったと言われる人でも、確固たる証拠がない/有罪とされない限りは無実であるとみなして接するべきなのではないかなと思ったのです。

特にメディアは逮捕をされた瞬間から犯罪者として扱う傾向が多い…と考えますし、疑われた時点で仕事ができなくなることもあります。
しかし、それは犯罪を犯していない場合重大な人権侵害になってしまいます。この点を注意しなければなりません。

これは私(たち)も同じ。メディアの情報だけを見て「犯罪を犯した人」として認識し、そのように接することはその人(たち)の心を深く傷つけることになります。

別の視点では、昨今、学校や会社でも「いじめ」や「セクハラ・パワハラ」などをしたということで、本当にやったかどうかを判断する機会が出ています。ここには専門家がほとんどなく、自分達の判断だけになってしまう…という危険性があります。
現在「本当に訴えるべき人が訴えられず、取り上げられない」ことも「訴えたもん勝ちの状態である」ことも、両方起きています。これは本当に危険なことだと思っていて、端的に言うと悪いこと(弱い人を虐げる/嘘を言って訴える)をしたもん勝ちって状態になりかねないんですよね…。

どの立場でも関わりうる状況である今、「推定無罪の原則」は私たち一人一人が持つべき、大事な心掛けなのではないかと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。