心の寂しさと「一対一の愛」…

おはようございます、satoです。

私はずっと「寂しさ」が拭えませんでした。
いつも心の中に「寂しい」という気持ちがつきまとっていました。いや、これは今でも。

神様に愛されている、そう摂理で教えてもらったのに、どうして寂しく思うのだろう?
鄭明析先生をはじめとして、すべての摂理の人はその愛を表現しようとみんな良くしているのに、どうして私は「寂しい」と思う気持ちが拭えないのだろうか?

人は「寂しい」と感じた時、それを何かで埋めようとします。
友達と話す、異性と話す、ネットサーフィン、勉強、仕事、ギャンブル、その他諸々…。
でも、それは瞬間は忘れられても、完全に消えることはありません。寂しさの問題が拭えていないからです。

私も、そうやって生活していました。
祈りの中でも寂しさが拭えない時がありますが、それでもまだ埋められている感じがしました。
また、研究をしている間、計算できて結果が出ている間はそれを感じなくなっていました。
でも、生活の中で何か問題にあたり、自分ができることがなくなると、この「寂しさ」が現れるのです。
そうすると、ほぼ決まってネットサーフィンするか、何かしらの本を読むか、雑な空想に没入するか、のどれかをします。

最近は御言葉を読むこともあります。
しかし、「寂しさ」が強い時は殆どの場合、心に入ってこないのです。頭で受け入れようとしても、何故か入らない。
それで、もっと苦しくなります。

そんな日々が続いていたある日。
岐点となる御言葉を私は聞きました。

神様との一対一の愛は、認めることと確信すること、そして挑戦することだ。

認める。
私が神様に愛されていることを。
それも、「人間だから」ではなく、「一人の恋人」として。愛の対象として。

このことを考えながら、最初は認めたくても、心の何処かで認められない自分がいました。
しかし、神様の声に従い心を整理していくうちに、一つのことに気づきました。

私が願っている「(寂しさを拭う手段としての)愛」と神様がなさる「愛」は、根本的に異なる

ということを。

私が「愛」と聞いて考えるのは、親が子供を抱きしめる、異性がスキンシップする、あるいは自分の本音を聞いてもらう…そういった「直接触れ合い、自分の気持ちを受け入れてもらう」ものでした。
心の何処かで、そのような愛を求めていたように感じます。特に自分の心が極的に不安定な時は。

しかし、神様がなさる愛は、もっと大きいのです。

私がこの世界に存在していることも、神様の愛。

私が摂理の御言葉を聞いて、足りなくても信仰を守れることも、神様の愛。

私が物を食べられるのも、家に暮らせるのも、数学を研究できるのも、すべて神様の愛。

自分がやりたいようにしている、と言っても「神様が許諾しないと」すべてのことは出来ません。
だから、私が「何かを出来る」ことも、神様の愛なのです。

私が生きていることも、私が生きていることが、神様の愛なのです。

でも、これを認めなければ、その愛を感じられません。だから、このことを分かったときに

それが全て神様の愛だ、ということを認めます。愛してくださって、本当に感謝します。

と祈りました。歩きながら(´・ω・`)

実は同じような祈りを明け方にしました。
私は「感謝」がそれほど得意でありません。代わりに「悔い改め(後悔?)」は割と良くします(´・ω・`)
なので、その日は意識的に感謝をたくさんしてみました。その時に出たのが先ほど挙げた御言葉だったのです。

心を閉ざして、寂しさに耐えながら生きていた私。
でも、神様の愛を認めることで、その寂しさが消えていった…気がします。
どうも「何かを見る」のは私の脳の習慣になっているようで、それを治めるのには時間がかかりそうですが。

それでも、私の信仰生活に光が見えたような、そんな悟りでした。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。