悪いことがあっても、悪く言えない理由。

おはようございます、satoです。
昨今、日本の様々な不祥事とか問題とか、政治の迷走、経済の腐敗、不正行為、教育問題、非行、様々な悲しい事件がたくさんニュースに出ています。そして、それを見て「今の日本はダメだ」とか「あの人はダメだ」という発言をする人を特にネットで多く見ます。
…私自身もそういうニュースを見ると「今の日本は平和から遠くなっている、理想ではない」という印象を受けます。でも、だからといって「今の日本はダメだ、あの人が悪い」とか言うものを見ると(例えそれが正しくても)心が痛くなります。
その理由がわからないまま「ああいう風に主張する人が悪い、あんなことを言わなければいいのに」って考えていたこともありました。でも、摂理に来てからその理由がわかりました。

私は色々人生を生きる中で、辛かったことがたくさんありました。
小学生の時には課題が提出できず、先生に怒鳴られたり殴られたりしてました。
中学生の時には友達と思っていた人から悪口を言われたり、物をとられたり、いじめられたりいじめたりしていました。それで、人のことを信じられなくなり、人から何か言われるのが怖くて言いなりになっていたこともありました。
高校生の時も自分がしたくないことをやらされたり、自分が一番嫌いな「性的な話」を聞かされたりしました。本当に辛かったのです。

もちろん、人から見たら大したことないこともあるかもしれませんが、私にとっては辛いことでした。
初めは自分でも「それくらい大したことない」と思っていたのです。
でも、教職の授業を聞いたり、色々な方の話を聞いているうちに「もしかしたら「学校に行けなくなる」とか「自殺する」とかしてたかもしれない(事実、小学生の時には「死にたい」と考えていたこともありましたし、その後つい最近までは生きている感覚が湧きませんでした)状況だった」ということに気づかされました。

それでは、そんな状況を経ても大学に入り、今も生きている、それも自分が目指していたことを成そうと努力できているのはどうしてか?
それは、小学生の時から今に至るまで「辛かったこと」と同じくらい、いや、それ以上に「たくさんの人に助けられてきたから」だと気づかされました。

いつもご飯を作ってくれて、家事や洗濯、様々に助けてくれた母、自分達を養うために働いてくれた父。

自分の話を聞いてくれた先生。自分のことを心配してくれたクラスメイト。「一緒にいてくれた」「出会えた」というだけで私にとっては嬉しいことでした。

「辛かったこと」をした人たちも、自分を遊びに呼んでくれたり、授業で楽しませてくれたり。

そして、摂理に来てから、多くの兄弟姉妹に支えられて。

だから、「私は誰も恨むことができない」のです。だから、私は「あの人が悪い」という言葉を聞くと、胸が痛いのです。まるで、その言葉を私が言ったように感じて、「今までよくしてくれた人」に申し訳ないから。
摂理に来て、それらすべてが「神様の愛」なのだ、と気づかされてから「生きる意欲」と「生きている感覚」が戻ってきました。
本当に神様に感謝します。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられていることである。

口語訳聖書 テサロニケ人への第一の手紙5章16-18節

もし、今辛いことにぶつかっている人がいたら、祈ってみてください。そうすれば、探しているものは「自分のすぐそば」に見つかるかもしれません。私も、祈ってから、これらのことがわかりましたから。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。