ヨブ記読了感想:正論と心情

おはようございます、satoです。
最近聖書通読でヨブ記を読んでて思ったことを書きたいと思います。

ヨブ記といえば…
神様の前に正しい人であったヨブ。
しかし、「ヨブは本当に正しい人なのか?」というサタンのいちゃもんによって攻撃され、財産を失い、自分も重い皮膚病を患い死ぬほどの苦しみに遭いました。
それを見た友人たちが慰めようと来たのですが、「この苦しみのあまり死ぬほどだ、生まれなければ良かった」というヨブの言葉を聞いて「神様の前で罪を犯したのではないか?」と言うことに…。
ヨブの弁明を聞いても、神様の前に罪を犯したのではないか?と話す友人、だんだんと糾弾する口調になり、ヨブのことをあしざまに話します。
この全ての患難は「神様によるものだ」と話したヨブと「ヨブの罪のせいだ」と話す友人。
最終的に神様が自ら「全ての御心を人は知るだろうか」と話して、神様がヨブを討ったのでなく、別の意図があると悟ったヨブが悔い改め、友人たちを許し、サタンもいちゃもんをつけられないようになって失った以上の財産と祝福を得た、という内容です。

ここで、ヨブ記に出てくる友人たちの話を聞いてみると、彼らの言っている内容自体は合っているのです。
「悪を行う人は神様が許さない、必ず報いられる」とか。
確かに別の箇所でもそのように話している預言があります。

しかし、ここで大事なのは…今回のヨブの状況は友人たちの話していることに該当していないのです。
友人たちは、ヨブの姿や状況を見て「罪があってこのようになった」と考えたのですが、実際にはそうでなくサタンによるものでした。
悪を行う人に対して神様は行いに報いて災難に遭わせるのですが、災難に遭ったから罪がある、とは限らないのです。
数学的には命題が真でもその逆は真とは限らないわけですね。それを友人は間違えたわけです。

13:1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。 13:2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。 13:3あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。 13:4また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 13:5あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

口語訳聖書 ルカによる福音書13章1−5節

ヨブの場合とは少し違いますが、イエス様も「ある人が災難に遭ったからと言ってその人たちが特別に罪深いわけでない」と話しています。

この話を通して、友人たちが一番間違えたのはヨブの心情を知らず、知ろうとしなかった点ではないかと私は思います。
どんなに正しい事だったとしても、その人の心情や状況に合わなかったなら、意味のない…どころか害を与えることにすらなるのです。
もし友人たちがヨブの心情…「神様を信じ、正しく生きていたのに無念な目に遭った悔しさ、辛さ」を汲み取っていたならばもっと違う言葉を話していたのではないでしょうか。

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

口語訳聖書 コリント人への第一の手紙13章1−2節

この記事を書いていてふとこの聖句が思い浮かんだのですが、確かにどのような正しい言葉だとしても「愛がなければ」ただやかましい鐘、騒音と変わらないわけです。
一番大事なのは、正しい言葉より、その人の心に合う言葉なのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。