聖書を繰り返し読んでみて感じたこと

おはようございます、satoです。
昨年から聖書をずっと通読しているのですが、繰り返し読むにつれて少しずつ感じ方が変わってきたのを感じています。
具体的には、内容の精読が深くできるようになったということです。

例えば、イエス様に至るまでの系図を読みながらついにイエス様が降臨するまでになったんだなぁと感慨深くなったり、イエス様が話しているちょっとした言葉を単なる一言と考えるところからあの人はこのような背景があったからそのような言葉を話したのではないか?と考えたり…そこまで長くない聖書の一文一文の間に込められた「書かれていない」背景が見えるようになってきたのです。

イエス様を送ることは神様が初めから計画なさったことで、旧約歴史はそのために進められていました。
神様を信じる信仰の条件を立てたアブラハムを土台に、その子孫を繁栄させ民族とし、土地を与えて国を作るようにし…メシアであるイエス様を送るための準備を進めていました。
その中で、イスラエル民族が神様を信じなくなったり、周囲の国に襲われたり、色々な患難がありましたが、その中でも神様が約束したメシアを送りました。その背景を考えるとマタイによる福音書1章の系図が感慨深くなるのです。

これは単に聖書を繰り返し読んだだけでは分からなくて、聖書について教えてくださった鄭明析先生の御言葉があって、その上で繰り返し読んだから理解できたことです。鄭明析先生の御言葉はイエス様の言葉だけでなく、自らの経験を通して悟りイエス様に教えてもらった背景まで教えてくださいます。だから、より生きたものとして御言葉が捉えられるのです。

それだけでなく、イエス様が送られたのはイスラエルのためだけでなく、私を含めた全人類のためでもあるのです。
聖書の話だけ見ると「今生きている私とイエス様がどのように関係するのだろうか?」と疑問に思うのですが(実際、私はずっとそこが疑問でした)、イエス様が来て下さったことによって神様を愛することを教えてくださり、どのように生きることが幸せなのか、平和とはどのようなものなのかを教えて下さって自分達が今生きている土台を作ってくださったというのを感じるようになりました。
だから、聖書を読んでも自分のことのように感じられるようになりました。

新約聖書は旧約聖書に比べて読みやすいところがありますが、だからこそ早く読み過ぎず…一つ一つを大切に読み進めていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。