おはようございます、satoです。
以前「ユダヤ教の人がどうして『メシアが雲に乗って来る』という言葉をそのまま信じたのか」について、一考察をしてみました。その話の続きとして、サブカルチャーの変遷と、結論として「正常が頂上だ」という鄭明析先生の御言葉を紹介したいと思います。
※この記事は次の本を参考にしています。
サブカルチャーの時代による変遷
1995年を境目に、社会構造や心理的な土台が崩壊し始めた日本。
この社会の変遷がサブカルチャー作品の変遷でも表れています。
日本のサブカルチャーの歴史を見たときにも、「1995年」というのは大きな節目になっています。
それまでは「正義の味方vs悪の組織」という単純な構造を持っていたストーリーだったのが「正義とは何か?自分とは何か?自分はどう生きれば良いのか?」という作品が出てくるようになりました。これを代表する作品が1995年に出た
新世紀エヴァンゲリオン
です。エヴァンゲリオンが「福音」という意味の言葉だったり、聖書をモチーフにした箇所がある(使徒の名前が天使だったり、アダムとエバだったり)この作品ですが、その内容のメインは主人公たちの心の葛藤を描いたものでした。
そして、これを機に
キャラクターが危機的状況に晒され、その中で葛藤する作品
というものが多く出されました。今で言うと「テラフォーマーズ」とか「進撃の巨人」とかでしょうかね。これを「サヴァイブ系」と呼んでいます。あと、「セカイ系」と呼ばれる自分と自分が(を)好きな人の関係によって、世界全体が左右されるような作品も多く出ました。これは「涼宮ハルヒシリーズ」とかが有名です。(個人的にはこれを「箱庭系」と呼びたい)
この二つは、実はどちらもエヴァンゲリオンがその土台となっています。前者は先程説明したとおりです。
後者はエヴァンゲリオンのアニメ最終回から来ているみたいです。(もっともこの作品の前から『閉じ込められた世界の中で主人公が…』という作品はありましたが)
これらの作品が作られた背景として考えられるのが、価値観を与えてくれる外部構造の崩壊に対して、どのように生きるのかという考えです。
今の日本社会において、自分が何もしなくても価値を与えてくれる、たとえば終身雇用制度などの制度は現在ほぼありません。また、宗教や神話に対する信頼もサリン事件以来崩壊しています。(その前から、日本は宗教に対する信頼感が薄い部分もありましたが)
これによって、無意味な日常が繰り返されるという世界になっている、と多くの人が感じています。
この中で自分の価値を与えてくれる社会は存在しないことを受け入れ、その中で意味や価値観を自分で持つことを表現したのがサヴァイヴ系、自分に価値を置かない世界を避け、自分に価値を置いてくれる人・モノのみがある世界を作ることを表現したのがセカイ系ということができます。
要するに、サブカルチャーの変遷が物語っていることは「無意味な日常」を繰り返す世界からの脱却を願う心理であり、そのために死や暴力、刺激的な恋愛といった「非日常」を求めているということです。それがサブカルチャーが過激に、そして暗くなっていくと感じていた原因なのかもしれません。
果たして、現実は「無意味」なのか?
もし現実世界の日常が無意味に感じられるならば「非日常」によって本当にそこから抜け出せるのでしょうか?
そうであるならば、次の聖句は希望となるでしょう。
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
口語訳聖書 テサロニケ人への第一の手紙4章16-17節
ここに書かれている「引き上げ」は、まさに「非日常」的です。だって、死んだ人が生き返って、生きている私達が空中に浮いて新しい世界に行くのですから。これほど「非日常」なことは無いでしょう。
一度十字架に掛けられ死んだイエス様が生き返って、雲に乗ってやってくるという聖句を信じる気持ちもわからなくはありません。それくらいであってこそ、このような現実世界を変えてくれると思うからです。
これに対して、摂理の御言葉はこのように話します。
引き上げ>も、「生活の中」で成されます。ある日、突然引き上げられて<天国>を手に入れるのではなく、「生活の中」で御言葉を行ない、引き上げを成すのです。
すなわち、自分の家、学校、職場での生活をうまくして、「生活の点数」がよくなければなりません。「24時間の自分の生活」によって<自分の運命>と<引き上げ>が左右されるからです。
罪を犯して生きていて、教会に来て悔い改めるのではなく、御言葉を聞いて帰って、「生活の中」で罪を犯さずに完全に生きるのです。また、教会に来たときだけ御子主を呼び、愛すると言うのではなく、御言葉を聞いて帰って、「生活の中」で御子主を呼んで、愛して生きるのです。このように「生活の中」で変化を成して引き上げられるのです。
–[鄭明析牧師による主日の御言葉から] 生活の中の英雄になりなさい。生活の中の引き上げだ。より
一言で言うと、この御言葉には日常の中で引き上げは起こると書いてあります。
引き上げをここでは「無意味な日常からの脱却」と考えると、それは非日常的なことで起こるのではなく、日常の生活で起こると書いてあります。
同じような御言葉で、非日常的なことで脱却したとしても、平素の生活に戻ればまた元に戻るとありました。
現実の日常は本当に無意味なのでしょうか?
言い換えると、本当に現実世界は面白く無いのでしょうか?
実は今のサブカルチャーの中で人気な作品には、死や恋愛がないものが増えてきています。
それ以上に、ありふれた友情、家族愛、日常の出来事(ごはんを食べるとか)の価値、楽しさを見出すことによって「無意味な日常」を抜け出していることが多いです。
本来、全く同じ一日は存在しません。
長年ブログを書き続けていますが、その中で似たようなことを書くことはあれど全く同じ文章を書くことはありません。これと同じように、全く同じ日というのは本来ないはずです。
もう少し言うと、一日に起こること一つ一つには意味があり、価値があり、楽しさがあります。日常が一番貴重なのです。
私はそのことを、摂理の御言葉で知りました。
摂理に来る前、サブカルチャーを見ていた私は「非日常」を求め、空想していましたが、分かってみると日常の中に楽しさがあり、刺激があるのです。
正常が『頂上』だ
これは、鄭明析先生の御言葉の一つです。
ユダヤ教が「雲に乗って来る」という非現実的な預言を信じたのは、「ローマを一気に滅ぼす」という非現実的な方法で救いが成されると考えていたからです。だから、日常の中、現実的に「人の姿」で来られたイエス様を排斥し、殺しまでしたのです。
そして、今も様々な問題が起きる中、「その世界が一気に変わる」ことを望む人は多いです。
しかし、イエス様の時のことを考えると、実際に成される救いは現実的に、日常の中で起こると思っていいでしょう。
それなら、一番貴重なのは、非日常でなく日常であるでしょう。
結局、「正常が『頂上』」なのです。
正常な世界の中で、物理法則に従って、世界が一気に変わるのでなく自分が変わることによって、「無意味な日常」という世界から脱却していく。それが出来る貴重な日常を、私たちは今日も生きているのです。
非日常ばかり求めて、日常にある「楽しさ」、「喜び」という一番貴重なものを見逃すことがないように、私は祈ります。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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