おはようございます、satoです。
今日はこちらの聖句から浮かんだことについて書きたいと思います。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。-マタイによる福音書6章19-21節
この聖句を読んでみると、自分が何を貴重に思っているのかによって運命が変わると感じました。
たとえば、ご飯が何より好きな人なら、ご飯を食べることが宝になるわけですし、お金が好きならお金が宝になります。
そして、それを得るために人生を生きるわけです。ご飯が好きなら、ご飯を食べるために働いてお金を得るし、お金が好きなら、お金を稼ぐために仕事をする、というように。
しかし、果たして「自分が何より大事だ」と思っていたことが、本当に永遠に残るものでしょうか?
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。-コリント人への第一の手紙15章50節
この聖句にもあるように、肉体が死んだ時、物質となるものは何一つ霊の世界に持っていくことが出来ません。
そもそも物質はずっと存在することが出来ず、いつかは必ずなくなります。そして、最後に残るのは「霊のもの」になるのです。
このことを考えると、自分が大事だと思っていた宝が「最後には持っていけない」となることがどれほど恐ろしいことなのだろうかと考えます。
お金を得ても、自分には何も残らないというのはあまりにも残念なことではないでしょうか…。
だから、私たちは「何を宝として生きるのか」をよく考えなければなりません。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。-コリント人への第一の手紙13章13節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。-マタイによる福音書6章33節
聖書には、このように書かれています。最後に残るものは「信仰と希望と愛」です。
それは私たちに始めから与えられた「神様の贈り物」であり、それを使って地上で生きて、残った経緯こそがいつまでも残るものです。
何を宝にするのか、今一度深く考えたいです。
余談ですが、聖書にお金は残らない、と書かれていたり、「お金持ちは天国に行くのが難しい」という聖句もあって「お金は天国に行く妨げになる」と考え忌避する考えもありますが、実際はそうではないと思います。
実際、ヨブ記のヨブはお金持ちですが、神様に対する信仰を持っていましたし、イエス様の時もアリマタヤのヨセフという有力なユダヤ人がイエス様の遺体を持っていきました。
結局「神様に対する信仰」が先にあるか否かで結果が変わるのだと思います。神様が願われるとおりにお金を使うなら、「お金を通して神様との経緯を作った」ことになるのですから。
…このご時世、お金がなければ生きるのが難しいですし、お金で助けられることもありますから。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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