心の目を開くことについて、私の過去と古明地姉妹から考える

心の目は、愛で開く。

おはようございます、satoです。
今日は明け方の御言葉で伝えられた話から、構想をいただきました。

今朝の明け方の礼拝で、次の御言葉を聞くようになりました。

肉の目を閉じて、心の目を開きなさい。
聖三位が誰よりも近いことが分かるだろう。- 心の秘密:<心の目>を開いて聖三位と私を見なさい!から

心の目。
この言葉は、私にとってある意味馴染み深いものです。私のツイッターも心の目というキーワードを多用しています。

それは…私が既成時代非常に気に入っていたキャラとの関連があります。それがタイトルに出てきた「古明地姉妹」です。
というわけで、今日はこの話から「心の目を開くにはどうしたらいいのだろうか?」ということについて書きたいと思います。

古明地姉妹とは…

東方シリーズというシューティングゲームのキャラクターです。姉がさとり、妹がこいしです。
あ、写真等が気になる方はグーグルで検索してみてください(´・ω・`)

このブログのメインカテゴリの一つ、「恋して悟り、Love日記。」ですが、実はこれもお気に入りキャラの影響が。よく見ると「こいしさとり」とさり気なく名前を入れていたのです。さり気なく暗号のように入れるのがとても好きなんです、私。

さて、この古明地姉妹というのは「さとり(覚)」という妖怪です。摂理でよく使う「悟り」とは漢字が異なります。
覚とはどんな妖怪か、というと…

(さとり)は、日本妖怪の一つ。鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』に記述があるほか、日本全国で人の心を見透かす妖怪として民話が伝えられている。-覚:wikipediaより

心を読む妖怪です。
そのことを反映してか、古明地姉妹には「心の目」サードアイがビジュアルとしてあります。ちょっと心臓っぽい?

姉のさとりは心の目が開いているのですが、妹のこいしは閉じています。それは心の目を使って人や妖怪の心が読めることによって、姉のさとりは嫌われていましたが、そのことを恐れてその能力を閉じてしまったからなのです。
その反動で彼女は「無意識」に没入するようになり、人からも「存在に気づかれない」ようになり、自分自身の目的も心も失って、目的なく彷徨う存在になっていたのでした。ちなみに、この記事に引用しようとしてちょっと調べたら最近の作品で「イマジナリーフレンド」という話が出ていましたが…。

古明地こいしと私の関連性

心の目について話をする前に、私の話をば。
私は古明地姉妹、とりわけこいしがとてもお気に入りでした。元々「純粋」そうなもの(子犬とか子猫とか、動物とか、赤ちゃんとか)には強く惹かれる傾向にあるのですが、そう見えたのでしょう。
しかし、あとでいろいろ考えてみると、自分との共通項が多かったのです。

私は、過去のあることから人に嫌われる経験をしました。
それ以来、私は空想の世界に没入し、それによって生きるようになりました。なんの目的もなく、ただぶらぶらと。心を閉ざして。
人には気づかれないどころか、かなり目立っていましたが(笑)

その姿が、こいしというキャラと相当被っていたのでした。

以前御言葉を聞いた中で私の脳内空想が「色々な漫画のキャラが御言葉を聞いて変化して一緒に過ごす」というものに変わった、という話をしましたが、彼女もこの中にいました。というか、割とメインキャラでした。

しかも、彼女のスペルカード(という名前の必殺技)、結構愛とか恋とかいうキーワードが多かったんですよね。なので、当時の私としてはより親和性が高くなりまして…(笑)今では笑い話でしたが。

そして、この脳内空想のキャラが現実世界にも影響して、私の心の支えとなった、という話もしました。
実はこの間、私にとってはそのキャラが現実にいるというくらい存在感がありました。現実にいる人と同じように対話し、語りかけ、交流する、ということがありました。
あとで分かったのですが、それこそがイマジナリーフレンドというものであることを知りました。

ちなみに、今はもうこいしを含めたキャラクターが交流することはありません。そのステージが終わったからでしょう。

心の目を開くには…

さて、今日のメインの話をしたいと思います。

私は摂理に来てから、大きく変化しました。具体的には、神様に心の目を開き、少しずつ周りにも心を開くようになりました。それによって、私は閉じこもっていたところから抜けだして、少しずつ愛の生を生きられるようになりました。

ただ、それでも、心の目を開く、言い換えると神様に心を開き、すべてを受け入れるのにはとても時間がかかりました。

それでは、どうやってそれを感じることができたのでしょうか?

私は、良くわからなくても御言葉に常に触れ続けていました。そして、そこにある神様の愛を心の奥底で感じていました。
また、御言葉を聞いた人たちを通して神様の愛を示してくださいました。
最初はそのことを負担に思ったり、色々猜疑心もあって愛とは感じ取ることができませんでした。でも、神様が「自分に向けて」話をしていることだけは感じていました。そのことに向き合い、少しずつ受け入れる中で…初めは私の心の中のキャラクターたちがそれを受けて変化していきました。

そして、そこから私が愛を感じることでイエス様を受け入れる土台が作られ、あるときキャラクターたちからイエス様、そして神様に至るようになりました。

心の目を開くには、真実な愛を受けることしかありません。
心の目を無理やり開かせれば、それはかえって心のトラウマになりかねません。そうではなく、まるで太陽が照らせば暑くて服を脱ぐように、神様は私を愛し続けることによって、心の目を「自分から」開くようにさせたのです。
だから私は今、心の目を開いて神様の視点で物事を考えられるようになったのです。

たぶん、人も同じでしょう。
様々な要因で、心の目を閉じて生きている人はいます。古明地こいしのような人もいるかもしれません。
そんな人たちに愛で良くしてあげれば…最初は受け取らずとも、心には響くものがあるはずです。
そして、それが積み重なっていつしか心の目が開かれ、「神様の愛があって、私が神様の愛を受けている」という悟りに至るでしょう。
きっと、私の心の中にいた古明地こいしも、このようにして心の目を開いたのでしょう…。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。