おはようございます、satoです。
本日は日曜なので主日礼拝を教会で捧げました。今日の御言葉は「再び肉も、魂も、霊も生まれ変わりなさい」という主題で伝えられました。
今日の御言葉が個人的にはとても良かったのですが、どこが良かったのかを聖句と合わせてお話ししていきたいと思います。
37:1主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。 37:2彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。 37:3彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。 37:4彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 37:5主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。 37:6わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
口語訳聖書 エゼキエル書37章1〜6節
今日の聖句はこちらです。この聖句だけを見ると「なんかファンタジーやな…」と思うかもしれませんので、この聖句の背景を紹介していこうと思います。
エゼキエル書はイザヤ書、エレミヤ書と並ぶ「大預言書」と呼ばれている箇所です。
エゼキエルは南ユダのエホヤキン王(最後より一個前の王)がバビロンに捕囚された時に一緒にバビロンに行き、そこで預言をしていた預言者です。特徴としては霊的な幻を多く見ており、最初の聖句もこの幻の様子を描いたものです。
エゼキエルが預言していた頃のイスラエルの状況ですが、簡潔にいうと「偶像を崇拝し、神様から離れた生活をしている」状況でした。エレミヤが預言していた時代とも重なっているのですが、その頃のユダの様子については、このように書かれています。
6:13「それは彼らが、小さい者から大きい者まで、
口語訳聖書 エレミヤ書6章13〜15節
みな不正な利をむさぼり、
また預言者から祭司にいたるまで、
みな偽りを行っているからだ。
6:14彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、
平安がないのに『平安、平安』と言っている。
6:15彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。
すこしも恥ずかしいとは思わず、
また恥じることを知らなかった。
それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。
わたしが彼らを罰するとき、
彼らは倒れる」と主は言われる。
「自分達が滅ぼされる」ということは全く考えておらず、むしろ「神様が助けてくださる」と話しており、安心しきった様子です。また、皆不正を行なっていて、立場の弱い人を虐げ、そこから利益を貪るようなことが蔓延っていました。
そんなユダを見て、神様が「この地に裁きを行う」と宣布された預言を伝えていたのがエレミヤやエゼキエルでした。
エレミヤについてはまた別の機会に書いていきたいと思います。
エレミヤはどちらかといえば心情的な話が多くあるのに対して、エゼキエルの預言はどちらかといえば激しいものが多いというのが私の印象です。
そんな中、この37章は希望的な預言となっています。
エゼキエルが霊で神様に導かれ、骨の多い谷間に来ました。
そこで神様に「これらのものを生き返らせることができるのか?」と尋ねられ、エゼキエルは「それはあなただけがご存じです」と答えると、「この骨に向かって、”あなたたちは生き返る”と言いなさい」と神様はおっしゃいました。
そこで、エゼキエルは実際にこの骨たちに神様が話した通りに言いました。
37:7わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。 37:8わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。 37:9時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。 37:10そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
口語訳聖書 エゼキエル書37章7−10節
まず、骨に肉がつき、肉体が元に戻りましたが息はしていませんでした。
そこでさらに神様が「息にこう言いなさい」と話した通りに、エゼキエルが話したところ、息が戻り、骨だった人たちは生き返って、大いなる群衆となった、と書いてあります。
ここで、単に生き返っただけでなく「大いなる群衆となった」というのがポイントです。単に生き返らせるだけにとどまらず、生き返った人たちは「大いなる」人となったわけです。
ところで、この骨は何者か、これについてはこのように書かれています。
37:11そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。 37:12それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。 37:13わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。 37:14わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。
口語訳聖書 エゼキエル書37章11−14節
この骨はイスラエルの群衆であるということを神様は話されました。
希望がなく、心が死んでいたイスラエル民族に対して、「あなたたちを墓から取り上げて、イスラエルの地に入らせる」と話されました。
ここまでの預言をまとめると、骨になったかのように心と希望が死んでいたイスラエル民族に対して、神様が御言葉を話して、復活させるというものになります。
ところで、この預言はイエス様が来たときに成就したのですが、実際にはどのように成就したでしょうか?
新約聖書を見ると、少なくとも昔生きていたけど死んで骨になったイスラエルの人たちの墓から彼らを取り上げ、肉をつけて復活させたという描写はひとつもありません。
では、どのように実現したのか、個人的にここが一番近いかなと思う箇所を引用します。
24:17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 24:18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 …
24:25そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 24:26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 …
24:30一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 24:31彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 24:32彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
口語訳聖書 ルカによる福音書24章17−32節(抜粋)
イエス様が十字架に架けられた後、弟子たちが落胆していた様子で歩いているところに復活したイエス様が来て、彼らと話されました。
イエス様の話を聞いた弟子たちはその言葉に心が熱くなり、元気になりました。
このように死んでいる心にイエス様が御言葉を伝えることによって生き返るようにさせたのです。
これと同じように、私たちも生きている中で、信仰生活をする中で段々と心がボロボロになり、死んでいきます。
これはどんなに気をつけていても、初めに熱い心になったとしても、時間が経つとそうなってしまう一面があります。
どんなに良い製品で、大事に扱っていたとしても、長く使うと劣化は避けられないように、私たちもそうです。物質の運命ともいえます。
そんな私たちに向けて、神様は御言葉を聞いて、再び心を熱くし、生まれ変わりなさいと話してくださいました。
最近ようやく信仰生活の良さが分かってきた私ですが、それでもやはり時間が経つとその感覚がすり減っているのを感じていたので、この御言葉を聞いてとても嬉しかったです。
なぜなら、心が熱くなくなったら、もう一度御言葉を聞いて熱く生まれ変われるからです。
3:3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 3:4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 3:5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
口語訳聖書 ルカによる福音書3章3−5節
イエス様が「新しく生まれなければ神の国に入ることができない」と話されていましたが、それは一度で一気に生まれ変わるというよりは、常に御言葉を聞いて、どんどん生まれ変わることを話していたのです。
エゼキエルの預言を今風に言うと「スクラップになったり、使い古して動きが悪くなった製品を溶鉱炉に溶かして、再び製鉄して新しい製品に作り直す」という感じでしょうか。新しい製品になれるなら嬉しいな、と個人的には思います。
自分のためにたくさん使ったけど、古くなってしまったものを捨ててしまうのではなく、御言葉で新しく生まれ変わらせて、再び使ってくださる、そんな神様の愛に感謝したいです。
特に最近「会社の利益のために限界以上に働かせ、働けなくなった人のことは気にも留めない」ような組織も残念ながら増えています。そんな中で、「自分達の心を尊重し、うまくできなくてもいつも御言葉で教えてくださったり、ケアしてくださる」神様の世界は本当に幸せだと思いました。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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