真の「信仰」とは?科学者もスッキリ『聖書の信仰観』

こんにちは、satoです。

今日は私の信仰観が覆った聖句についてお話しします。

私は何かを「信じる」ことがとても苦手でした。 だって、確実でないから
数学をやっていると特にこうなりがちなのですが…何の根拠もなくただ信じなさい!と言われると、とてもカチンと来ました。

イヤ、根拠を示してくれよ!

俺は根拠がないと信じない!

そんな感じでした。
だって、無条件信じなさい、と言われると 何か思考放棄している 気がするじゃないですか?
数学は直感的にはあっているようなこともいや、何か例外があるのでは…と考えるような学問です。だから、数学は証明をするんですよね。確実に合っているかを確認するために。

そういうわけで、 ちゃんと自分で考えて納得する まではそのことを信じられない、そんな私でした。
だから、信じなさい!という言葉は苦手…でした。

日本人の(無意識下で考える)信仰のイメージ

今の私の思考には一つ欠けているところがあります。 それは

そもそも、神様が言う「信じる」とは何か?

です。 私が「信じる」と聞いた時には何も考えず、ただそれが正しいと『思い込む』 という風に考えていました。
何かしらの宗教を信じている、と聞くと
完全にそれが正しいと『思い込んで』、間違っている可能性を排除する
たとえ矛盾していることがあったとしても、それを無視して正しいと思い込む
というイメージを持っていました。
とにかく神様に頼めばなんとかなるでしょ、困ったときの神頼み…という感じ。

これは宗教に限ったことではありません。 何かしらのグループ、アニメ、サッカーチーム…などなどにカルト的にハマっている人もこんな感じに私には見えます。いわば盲目的な信仰ですね。
こういう信仰、というか思考回路は科学者が嫌います。 何故なら、科学者はそれがどうして成り立つのか、より根本を知りたいのに、神様がしたから、それを信じなさい、それ以上考える必要はない!なんていうのは到底受け入れられないのです。
そして、こういう思考回路は私が本当に嫌っていたものでもあります。

聖書における信仰観

ところで、聖書では『信仰』についてなんと書かれているでしょうか?
ここが今日のポイントであり、私の一番大好きな聖句でもあります。  

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

口語訳聖書 ヘブル人への手紙11章1節

…あまりにも重要、かつ本当に大好きなので、色を変えてまで強調しました(笑)

まだ見ていない事実を『確認する』こと

これが信仰だ、と話しています。 そう、確認していいのです。正しいかどうかを。
これが先程話した『盲目的な信仰』とは異なることはお分かりになると思います。私はこの聖書の「信じる」という言葉がとても好きです。 何故なら、わからないものは、わからないということを認めていいから。

摂理の御言葉でも、『確認しなさい』という言葉は何回も出てきます。   

20140729鄭明析先生の明け方の箴言.jpg
<世の中万事すべてのこと>について、誰かが言うことだけを信じて、 大雑把に確認するのではなく、本人が100%確認してみなければならない。 鄭明析牧師の明け方の御言葉より@
20140708鄭明析先生の明け方の箴言.jpg
あることをするとき、御子の御心なのかそうでないのかを、 確認しなければならない。 少しだけ確認して判断するのではなく、初めから後〔のち〕まで、 この上なく確認しなさい。そうすれば失敗がない。 鄭明析牧師の明け方の御言葉より@

神様の御心なのかどうか、それも確認しなさい、とはっきりとおっしゃります。

20140708鄭明析先生の明け方の箴言.jpg
確認できるまで諦めないで、最後まで確認しなさい。 鄭明析牧師の明け方の御言葉より@

この箴言はとっても大好きなものの一つです。
だって、わかるまでは必ず確認していいということでもあり、必ず正しいかどうか確認できるということでもあるから。
そして、これは科学者の『最後まで知ろう』とする考え方とも合致します。 正しいかどうかを確認する、間違っていたら別の道に行けばいいというわけですから。
正しいかどうかわからないものを無理やり正しいと思いこむより、よほど健全だと思います。

宗教が苦手、という人はもしかしたらこの信じるというイメージを誤解しているから、なのかなと推測します。
そういう方は 信じるということは、確認することだ と考えていただければ少しは苦手感がなくなるのではないでしょうか?

ところで、私は摂理の御言葉が間違っていないということをこれまでずっと確認し続けました。
わからないところはたくさん祈って、納得出来ない時は納得出来ない、と神様に正直に打ち明けました。
今回の『信じなさい!』という話も「信じなさいと言われても納得出来ないです…」と話したときに、私の信仰に対する認識が間違っていたことを悟らせて、この聖句が浮かぶようにしてくださいました。
そういうわけで、私は摂理の御言葉、そして聖三位を信頼しています。
わからなかったら、確実に教えてくださる。わからないという私の気持ちを、しっかりと受け止めてくださる。 そういう安心感が、今なら確実にあるのです。
そういうわけで。 わからないと思った時には、摂理に来なさい。 答えが、ここにあるから。 と自信を持って話します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。