もしも、生まれ変われるとしたら…。

こんばんは、satoです。

よくある質問の中に、こんなものがあります。
「もしも、あなたが生まれ変わったら何になりたい?」
…これはたぶん「一度死んで、また生きられるとしたら」という意味で「生まれ変わり」が使われています。その根幹にあるのは「輪廻転生」の思想でしょう。

聖書にも「生まれ変わり」の話があります。

パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。-ヨハネによる福音書3章1-3節

ニコデモというユダヤ教の指導者がイエス様と出会い、彼を「神の人だ」と認めていることからこの場面が始まります。
ニコデモを見てイエス様は「生まれ変わらなければ神様の国を見れない」と話しました。これを聞いたニコデモは…

ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。-ヨハネによる福音書3章4節

と反応しました。彼も「一度死んで生まれ変わる」という「輪廻転生」に近い生まれ変わりのことを考えていました。ところが、イエス様が話している「生まれ変わり」はこれとは違いました。

イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。-ヨハネによる福音書3章5節

イエス様が話していたのは「水と霊による生まれ変わり」のことでした。…と言っても、これだけだとよく分かりませんよね。
鄭明析先生は聖書は比喩で書かれているということに気づき、これによってこれまでよくわからなかった聖書の箇所を明快に教えてくださいました。
水と霊も比喩で、水は「御言葉」、霊は「聖霊」を意味します。
「御言葉と聖霊によって、自分の生き方が変化する」というのが、イエス様の話していた生まれ変わりです。
ちなみに、聖霊というのは簡単にいえば「神様の心情」です。詳しく知りたい方はお近くの摂理人まで(笑)

今日、この聖句がふと頭に浮かんで、「あぁ、私は本当に生まれ変わったんだな」ということを感じました。

今まで自分に対してなんの価値も見いだせず、ひたすら人の目を気にして苦しく生きていた人生。
自分のすべきことに対して、誰かが教えてくれることだけを行ない、深く考えることもなく生きていた人生。
そもそも神様を信じること、愛することを知らなかった人生。

それが、御言葉を聞き、神様の心情を知ることによって、「神様を離したくない、神様とずっと共にしたい」という風に考えが変わり、神様の前に栄光を捧げることが喜びになりました。
そして、自分がどんなに不出来でも、罪を犯したとしても「自分が生きている」そのことを見て、今までの労苦を労ってくださる、そんな私を愛する方に出会えて、自分の価値を本当に噛みしめるようになりました。
また、自分が行なうことや思考、そして与えられた知識に対して深く考え、自分なりに理解できるようになりました。

本当に「神様を愛したい、愛する」という人生に「生まれ変わった」のだ、ということを実感します。

そういうわけで、冒頭に挙げた「もしも生まれ変われるのなら…」という質問を私にすると、「生まれ変わってもこの生き方をしたい」という答えが自然と浮かび上がってきます。
今は大好きな数学が出来る(環境的にも、理解度的にも)し、昔より自信を持てるようになったし…。
何よりも自分を誰よりも愛してくださる神様に出会って、その方と共に生きられる。そして、その方の成すことを共に成していける。
過去のことを後悔してばかりの私でしたが…今は本当に「この生き方で本当に良かった、生きててよかった」と言うことができます。代替不可能ですね、私の人生。

もちろん出来ないことは多くありますが。
それでも、「私が生きていることを喜んでくれる」その方がいるから、その方のためならもっと頑張れる力が湧いてきます。その力で、もっと変化できると確信してます。
本当にこのような貴重な生を与えてくださった神様に心から感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。