おはようございます、satoです。
少し前に摂理人が書いた次の記事を読みました。
日本人にとって、神様が必要な3つのこと@摂理de結婚~神様の祝福 キリスト教福音宣教会~
この記事を読んで、特に一番最初の「キリスト教の神様と日本の神様の概念は異なる」という話について思ったことを率直に書いてみたいと思います。
漫画にも出てくる「神は人間が創り出した産物」って話。
日本の神道で言う「神」は
その時点の人間が
理解できないことを総称しています雷や地震が理解できないときは、
雷や地震=「神」が怒っている、神の祟(たた)り
→「神」を恐れる
→「神」を鎮める
→「神」を拝む、ということになります
確かに、風神雷神は風、雷がどのようにして起こるのか分からないから出てきたものです。
よくあるのは、洪水などの「自分に迫りくる脅威」がどのように起こるのかを理解できず、それを神として恐れ祀るって流れです。
知らない世界から「神」は生み出されたといえます。
漫画の話にもこういう言葉は出ていて、たとえば某有名海賊漫画の空島編で「ゴッド」と名乗っていたキャラは
「”恐怖”こそが”神”なのだ」
などと話していました。また、某有名錬金術漫画の大総統は神を信じる少数民族に対して
「そもそも神とはなんだ?
弱き人間が寄辺が欲しくて創り出した偶像ではないのか?」
と話しています。ちなみに、この台詞を話していた人はいずれも作中最強レベルで強いという共通点がありますが、現実でも「自分自体で生活できている」人、たとえば起業家やエリートなどほどこのような「神は人間が創り出したもの」と話す傾向にあります。
「神様を信じるということは弱い人がすることだ」という認識も、この「恐怖の対象を神にする」というところから来ているのかもしれません。
そうすると、日本にこの認識が強いこともうなずけます。
唯一神神様と神道の神は異なる
さて、
キリスト教でいう「神」とは
どういう存在か神様は唯一絶対神であり、
創造主です人間が存在しているのと同様、
神様も存在しています
先程の記事にもこうあるように、キリスト教の神様は「唯一神」であり、「創造主」、つまりこの地球を含めた全てのものを作られた方です。
当然、雷とか地震とかを発生させる「法則」をも作られました。
科学が発達して、雷が「電圧差によって生じる放電現象」、地震が「プレートの動きによるもの」と分かるようになりました。
それによって、恐怖がなくなり、神道的な神への信仰は薄れていきますが、これに対して「法則」を作られた神様という存在は消えるどころかむしろはっきりと現れます。
それは無秩序に起こるのではなく、一定の法則があるということは「それを作った者」がいるということを示すからです。
この精神で、ヨーロッパの科学者は科学を発展させました。
科学を発展させ、より簡明な法則を作ることが「神様が天地万物を作られた」ということを証すると信じたからです。
本当に「創造主」がいるのか、という疑問に対する問題提起
ここまで聞いて「本当に『創造主』神様がいるのか?」という疑問を感じる人は多いかと思います。
そこで、こんな思考実験をしてみたいと思います。
創造主神様がいない、ということは「この世界全てが偶然によって作られた」ということになります。
今の科学はこのような流れでマルチユニバース論などを立てていますね。
ところで、皆さんは次のような現象を見たことがあるでしょうか?
「コーヒーにミルクを入れて均一に混ぜた。しばらく放っておいたら混ぜる前みたいにコーヒーとミルクが分離したり、ミルクが幾何学的な模様を描いてた」
…これ、見たことがないですよね。
科学的にはエントロピー増大の法則というものがありまして、端的に述べますとエネルギーを加えたりしなければすべてのものは均一になっていくということになります。
それでは、「無」の状態、言い換えると均一の状態からどうやって「非均一的な」宇宙、地球、そして私たちが生まれたでしょうか?
もっというと、宇宙、地球、私という「原子が固まった状態」の存在がどうやって作られたのでしょうか?
その過程は分かっていますが、どうしてそのように進行していったのかはうまく説明できない気がします。
物理学でもこの問題は議論されていますが、少なくとも「偶然、放っておいてできる」ものではないだろうと私は思います。
「私」という存在が神様を証明する
「でも、この世界は本当に存在するのか?」
という話が出てくるかもしれません。この全ての宇宙、地球、私の肉体という物質的なものは実は「夢」の」ように存在しないもの、私たちは長い間夢の中にいたのだ…って、SF小説にある話です。
そんなあなたにデカルトのかの有名な言葉を送ります。
「我思う、故に我在り」
物質や全ての法則を否定してなお「そのことを考える自分という存在は明確に存在している」という思考実験によって得られた、自分の存在証明。
私たちも色々な物事を見て聞いていますが、それを「受け取り、考える」私という存在は確かに自分自身が自覚しています。
つまり、自分という存在は疑いようもなく存在しているのです。
「自分の思想」がある、とかそういう話でなく、「認識」として私が存在するのです。
そして、もう一つ私がこれに付け加えますと、
我存在する、故に神在り
という言葉が成り立つと私は思います。
「意識」の問題が科学的に解明されていない、ということは一旦気にしないで議論を進めますと、地球や私という存在が「偶然によって」生まれないように、私の意識というのもやはり「偶然の産物」とは到底考えにくいものです。
やはり、何かしらの力を受けて創られたと考えるのが自然なように感じます。そして、そこに「創造主神様の存在」が見えてくるのです。
もっというと、私という存在が存在するように、神様も存在するということです。
以上で、日本の神と聖書の神様の違いと、創造主神様が存在することについての私の話を終えたいと思います。
最後に、創造主神様がいたとして私たちに何の関わりがあるのか、ということについて、某海賊漫画の主人公の台詞を引用して終えたいと思います。
「何一つ…救わねェ神がどこにいるんだァ!!!!」
この記事を書いたブロガー
-
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
最近の投稿
- 日常生活2024年11月8日原点回帰:このブログの目的を振り返る。
- 日常生活2024年11月7日何が生きるか分からない
- 聖書&御言葉2024年11月6日目的と欲求の葛藤
- 日常生活2024年11月5日旅行から帰ってきました。