摂理の御言葉によく出る「公義」とは…?

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ただ神様、聖霊様、御子だけが「公義の裁判」をなさる。
鄭明析先生の明け方の箴言から

こんばんは、satoです。
上の御言葉はお馴染み摂理公式サイト「マンデー」からの抜粋です。
このサイトで摂理の御言葉を見ると…普段聞き慣れない単語が多くありますよね?
上の摂理の御言葉で出てくる「公義」という言葉もその一つ。これって、どういう意味なんでしょう?
公義というのは、一言で言うと「行った通り」という意味で使われています。
だから、最初に挙げた箴言は「神様、聖霊様、御子だけが「行った通りに」報いることができる」ということにもなります。
考えてみれば…私たち人間が「その人の行った通りに」報いることはできません。何故なら私たちは「その人の行い全てを知ることができない」からです。
インターネットで色々知れることがあったとしても、その人の行いを逐次記録した情報はないですし、近くにいる人が見ていたとしてもそれには限界があります。また、例えすべて見ていたとしても、その人が「どういう考えで」行ったのかまでは知ることができません。
それができるのは、神様、聖霊様、御子…ただ聖三位だけです。
言い換えると「私たちのことを本当に理解できるのは聖三位だけ」とも言えます。だって、他の人はただ一部しか自分を見ていなくて、その中でしか理解できないわけですから。それは、誤解だって起こるでしょう…。
そして、自分は案外自分を見ていません…。これは私自身も体験したことですが、自分が生活しているときって、ほとんど「自分のこと」を考えていません。大抵いているのは「他人のこと」か「欲しいもの」か「願望」か…。
そう、自分の気持ちは自分がわかっている!という人でも自分のことを誤解しているということは往々にしてあることです。
そういうわけで、正しく判断できるのは聖三位だけです。
だから、私は摂理に来れて本当に感謝しています。
自分のことを正しく理解し、自分が本当に行きたい道を示してくださるから。
そういう方に出会えたから…私は心がとても楽になり、本当の意味で慰めを受けました。
自分を理解してくれる方に出会えたこと。
それが、幸せなことだなって、思うんです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。