じゃがいもを剥きながら考える…

おはようございます、satoです。


ある時のこと、私は夕食を作るためにじゃがいもを剥いていました。
北海市場というとても安いところで買ったじゃがいも。
じゃがいもは放っておくと芽が出てきてしまいます。そんなじゃがいもを洗って剥きました。

芽を取って皮を剥くと、ところどころ色が変わっていたり、空白のところができていました。
腐っていたのです。
といっても、腐ったところはほんの僅かでそこを取り除いたら食べられそうなので、そこだけくり抜きました。
そんなじゃがいもをずっと見ながら、こんな言葉が浮かびました。

「種は腐ってこそ実を結ぶ」

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

口語訳聖書 ヨハネによる福音書12章24節

植物の種は地に落ちる前は小さな種のままです。
種が地に落ちたとしても、発芽しなければ種のままです。畑に種を蒔いても芽が出ない、ということを見たことがある人も多いかと思います。
種の栄養を吸収して幼根が成長して土に到達することで種から芽が出るのです。
この「種にある栄養分を吸収する」過程を「種が腐る」と表現したのだと思います。

ところで、じゃがいもの場合はいも自体が種となって新しい芽を出します。種芋というものですね。
だから、私がじゃがいもを剥いたときに「腐っていた」のも無理はありませんでした。芽が出ている分、種であるじゃがいもの養分が吸い取られているのですから。

これを見ながら、このように私自身も自分で終わってしまったらもったいない生を生きているなと思いました。
じゃがいもは芽を出して新たな生命を産もうとしています。このように、私も「自分の能力、才能」をもっと神様のために活かして、人を助けられたらもっと生きがいがある人生を生きますよね。

死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

口語訳聖書 コリント人への第一の手紙15章42-44節

あるいは、もっと…。
自分の肉体の生が、そのまま霊魂に吸収され、霊が作られる、と摂理の御言葉で教えてもらいました。
だから、自分の肉がもっと義の栄養を積んでこそ、霊魂も健康になるのだと感じました。

新たな生命を生むためにじゃがいもは養分を豊富に蓄えています。
そんなじゃがいもを、夕飯として美味しくいただきました。
この栄養を受けて、もっと霊的に、神様のために生きていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。