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「指導者」というもの~塾バイトをしながら痛感する~

「指導者」というもの~塾バイトをしながら痛感する~

おはようございます、satoです。

摂理に来て御言葉を聞いていると指導者に向けた御言葉を聞く事があります。

<天から使命をもらった人>は、<仕事>と共に<義の権勢>をもらって、<義>を行ないつつ<使命>を果たさなければなりません。

国の権勢者たちが<使命>をもらい、<権勢>だけを行使して、<義なる権勢>を行使しないので、<義なる権勢者>になれず、むしろ<罪を犯す人>になり、<神様の前で裁きの対象者>になるのです。

-鄭明析先生の水曜礼拝の御言葉「<神様がくださった権勢>を謙遜に使い、 義と公義と愛と慈しみと慈悲で行ないなさい。」より

たとえば、指導者というのは人の上に立つ人なので、その分「権勢」があります。
韓国の大統領は一国そのものというくらいの権勢があるのですが、そうでなくても国政に携わる人には何かしらの「権勢」があります。
しかし、鄭明析先生はこの「権勢」を義のために用い、愛と慈しみと慈悲で行いなさい、と話されました。

摂理で「指導者」と聞くと、すぐに思い浮かぶのは牧会者や各部署をまとめる人たちです。
こういう人たちに対して、特に鄭明析先生は色々なことを話されます。

みんな「古いもの」を葬らなければなりません。 死体を置いて葬らなければ、死体が腐って臭いがたちこめ、死体によって怖く、恐ろしく、苦しいです。 そうすると結局すべての人たちが遠ざけるようになります。 あの家は10日、20日経っても葬らないと言って、結局弔問客も途絶え、間違っていると言い始めます。 摂理人たちもそうです。主が話したら、強情と主張を捨てて、速く行なわなければなりません。 遅く行なったら、摂理史でどんな指導者であっても、速く行なう人たちが見て、間違っていると話します。

-鄭明析先生の水曜日の御言葉「私に学びなさい。私と一緒に行ないなさい。」より

だから、指導者がまず古いものを捨てて、御言葉を通して学びなさいとおっしゃります。

ところで、私は現在摂理において「指導者」と呼ばれる位置にはいない…と認識しています。
教会で任されている使命(役割)はあって、そのことにおいては頑張りますが、人をまとめ、導くということはあまりしていません。
だから、指導者と聞いても「将来」のことのように感じていました…最近までは。

教会の指導者でなくても…

しかし、最近始めた塾のバイトを続けているうちに、私は気づきました。
私は今「指導者」という立場になっている
と。

そう、たとえ教会に普通にいたとしても、摂理でないところ(学校、職場、家庭など)で指導者という立場になることはあります。
というか…おそらく確実になります。

塾の講師は子どもたちの前では「指導者」です。
だから、指導者がうまくできなければ子どもたちもうまくできません。
たとえば、子どもたちが何かしらの失敗、すべきことができないとか、をして、それに対して何も話さなければ「これはしても良いのかな?」と考えて、子どもたちが悪い方向に行ってしまいます。
かと言って、それに対して怒ったり、極端に言えば罵声を浴びせれば、子どもたちは反発、あるいは萎縮してしまいます。
子どもたちは放っておけば間違った道に行ってしまう、しかし、彼らにも彼らの考えがあり、やり方があり、それを尊重しなければなりません。
そういうことを考えると、本当に、本当に難しいです。

たとえ自分が「意味ある言葉」として話したことだとしても、その子が理解できなければ「訳の分からない言葉」になってしまいます。
そう考えながら、私の現在の指導法を見てみると…(´・ω:;.:…とてもとは言えませんが足りなさすぎます。
まず、子どもたちの「考え方」を聞き出せていないし、(幸い子どもたちは自分を「面白い」と見ていますが)「叱る」ことができないでいます。
そもそも、自分がちゃんとできていないことを叱ったとしても、その言葉には何の力もありません。たとえ論理的に正しかったとしても。
そういう意味で、摂理の小学生が書いたこの記事の姿勢は学ばなければなりません。

たいてい、子どもたちがしていて「自分が叱るべきところ」というのは自分ができていないところのことが多いです。
たとえば、宿題をしていないとか、できるかどうかが分かっていないとか、テスト前なのにやる気をなくすとか…書いてて心に刺さる(´・ω:;.:…

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。-マタイによる福音書7章3-5節

この聖句の通り、まずは自分から直します。
自分が変わってこそ、周りが変化しますから…。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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