こんばんは、satoです。
昨日からあることに気づいて、明け方から思いっきりそのことについて祈っています。
それは「自分が過去持っていた経験や知識を全部捨てる」ことです。
どうしてこう思ったのか、と言いますと。
私は「自分の心が綺麗になること」を強く願っていますが、神様の目に「清く」なるためにはどうしたらいいのだろうと考えました。
その時、「もしかして、私が色々な知識を持っていて、それが神様に向かう心を邪魔しているのかな?」という考えが出ました。
確かに、私は現時点においても「神様を知らず一人で生きていたころ」の考え、認識で生活していることが多かったのです。
そこで昨日から思い切って「過去私が一人で生きていたこと」を悔い改め、その頃の認識をなくすためにお祈りしています。
そうしたところ、以前なら受け入れられなかった信仰的な認識が入ってくるのを感じました。
結構私、昔のころの認識で御言葉を聞いていて、御言葉との葛藤が多くあったのです。
たとえば、「自分を捨てる」こととか「信じる」こととか、そういうところで。
神様が一番願われる祈りとは何でしょう?
それは…その時によって違いますが(笑)しかし、「神様を信じて自分を捨てる」祈りは喜ばれるようです。
聖書でも
しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
-ヤコブの手紙4章6節
とあります。へりくだる、というのは「自分の足りなさを認めて、神様に願い求める」ことです。言い換えると「謙虚」ということです。
決して「卑下をする」わけではありません。
よくよく考えると、私はお祈りの中で「悔い改め」をよくするのですが、これ「自分が足りない」とネガティブに捉えてちょっと卑下してしまうことが多かったです。
元気と転換~ウォルミョンドンでの収穫♪~-摂理うつのありのまま
これは摂理人羽衣(はごろも)さんが書いているブログですが、ここでも
なんだか摂理に来る前のほうがポジティブになろうと頑張っていたような気がしました(笑)
どうしてそうなっちゃったのかな?と考えてみたところ、お祈りの中で「悔い改め」をするときに、自分ができなかったことを探しているうちに、こんなにできないことあったのかとどんどん暗くなっちゃってる自分がいるということに気付きました。
でも、神様が望んでいらっしゃるのは、そこで暗くなることじゃなくて、そういうことがあったなら、次からはそれをしないように、つまづいてることがあってできなかったなら対話で解いて乗り越えて行えるように努力してみよう!ということでした^^
とありましたが、その気持ちよくわかります(笑)特に自分が失敗したときに祈る祈りは本当に落ち込みますよね…。
ちょっと暗くなりそうな心を切り替え、まず「自分の過去の認識を完全に覆せる」ように続けて祈っていきます!(`・ω・´)
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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