「心の練達」は「対処する方法を身につけること」

おはようございます、satoです。

今日も一日お疲れ様でした。私はかなり色々な仕事をして一日があっという間に終わりました(^_^;)
社会人になるとやることも多くて忙しくなり、疲れることも多いです…よね。

ところで、昔聞いた御言葉にこのようなものがあります。

<体>も運動して鍛錬すれば、10倍、20倍強く作る。心も考えも体も体質も、錬達し鍛錬しなさい。

錬達しなければ、疎外感、誤解、委縮、恐れ、恐怖、人の目を気にすること、鬱(うつ)病になりやすく、小さいことにぶつかっても打撃を受ける。

そうすると神経があまりにも衝撃を受けて、すべきことがちゃんとできない。

鄭明析先生の水曜礼拝の御言葉「考えが主人だ。検討者だ。今は感情の時代だ。」より

この「感情の時代」というタイトルも深く考えさせられる言葉なのですが、今回考えたのは「心の練達」についてです。

体の練達、といえば筋トレやランニングみたいに「体を鍛えていく」ことです。
より詳しく言えば「体に負荷を掛けて、それにならすことで限界を越えていく」という感じです。
これと同じことが心にも言えます。

ところで、「心の練達」というのはどういうことなのでしょうか?
「辛い状況下でも耐える」こと?もちろん、それでも鍛えられるものがあると思います。
体の練達に倣って書けば「心に負荷を掛けて、それにならすこと」でしょうか。

しかし、個人的経験としては心の練達、というのは「出来なかったことを出来るようにする、どのような状況でも対応できる方法を身につけること」なのかなと思っています。
それはどうしてか、というと「私自身が色々な状況を乗り越えることで、心の余裕がついてきた」からです。
私が摂理を走ってから、色々な経験、というか失敗をしてきました。借金とか、罪のこととか、就活とか…。
始めは世の中をよく分からず、そもそもどのように社会生活をすれば良いのか、「空想と幻想の住人」だった私にとっては全く分かりませんでした。(今も抜けているところはあると思います)
そんな中、バイトを探して実際にお金を稼いだり、自分と向き合って罪を悔い改め心を回復させたり、その都度神様は「経験」させました。
それによって「こういう状況にぶつかった時に自分はどうすれば良いのか」をきちんと理解するようになりました。
そして、これによって自分の心に余裕が出てきて、少し安定してきました。

今振り返ると昔はかなり神経質で、心配症でした。
それは「自分が失敗した時どのようにすれば良いのか」が分かっていなかったからでした。
それに比べると、今ではかなり図太くなりました。(多少図太すぎないか、心配ですが(^_^;))

今も自分が経験していないような出来事をせざるを得ない状況にぶつかっています。
これもまた私を練達させる天の御心です。そう考えると本当に感謝しかありません。
最も、ぶつかっている時はかなりつらいですが(笑)

わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。

口語訳聖書 ピリピ人への手紙4章12節

パウロのこのような境地に至れるように、今日も頑張ります。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。