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御言葉と形而上学の世界について。

御言葉と形而上学の世界について。

おはようございます、satoです。

私は数学を学び、現在研究していますが、数学の好きなところの一つとして形而上学的であるというところがあります。
形而上学というのを簡単に表すと「現実とは離れた、概念の世界」という感じです。
私はマンガが好きなのですが、特にこの「形而上学的な要素」が入っているものがとても好きですね。わけの分からない概念の世界の話とか、本当に大好きでした。(中二病乙)
そういうところがあるから数学が好き、というのはままあります\(^o^)/

そんな私なので、御言葉も結構好きです。
どちらかと言えば「考え」の話が好きで、自分の性格を深く知ったり、物事の本質を考えるのが好きな私にとっては御言葉が本当に良いです。
ところで、御言葉の中でとても感動したのがこちらの話です。

神様は<人間の肉体の脳>を、集中して考えるとおりに見えるように創造なさいました。
しかし<肉>は集中しても、「石」が「人間」には見えません。
考えと精神を超集中して行なう人、霊級が高い人は<石>が「女」や「男」に見え、<山>も「自分が願っている人」に見え、<地形>も「自分が願っている形体」に見えます。
<霊の能力者>は「一つの存在物」も「いろいろな形体」として認識して見ます。-鄭明析先生の水曜礼拝の御言葉「神様は隠密に行なわれる」より

この考えを超集中して行う人は「石や山が人に見える」というのに、私はこの御言葉の次元の高さを感じています。
この御言葉を受けた鄭明析先生の経緯として、当時先生は鍾乳洞がとても美しいと思っていてお祈りをしたところ神様が悟らせてくださって「<考えの次元>を上げて見たら、あなたが願っているとおりに見えるのではないか」とおっしゃいました。
そうして実際に考えの次元を上げたところ、月明洞が鍾乳洞のように見えたそうです。さらに、

また、愛する摂理人たちに会いたいので、<月明洞の岩の造景>を「人間」として見ました。
そうしたら<石たち>が「立っている人」に見えて、「人の形象」が見えました。

というように、岩を通して人を見たのです。

このようなエピソードはよく鄭明析先生と共にした人が話されます。鄭明析先生が月明洞で作業される時に岩や木の状態を通して摂理にいる人のことを話した、とか、人をどのように育てるのかを教えた、とか。
摂理の御言葉の中でも基本となるものの一つに「このようにこうだ」というものがありますが、このエピソードはまさに「このようにこうだ」という実践なのです。

私がこのエピソードでとても感動した理由が「摂理の御言葉は本当に形而上学的だ、それも数学よりもさらに次元の高い世界だ」ということに気づいたからです。

先程の基本の御言葉「このようにこうだ」を数学、あるいは形而上学的に表現するとアナロジー(Analogy)という言葉になります。
つまり、ある物事を別の物事に結びつけて説明したり、推測したりすることです。
数学もこの思考法を持っていて、特に新しい理論を作る時に出てきます。

例えば、かの有名なヴェイユ予想は、有限体上の代数多様体に対して定義される合同ゼータ関数に関する予想でした。
この予想の中に「ベッチ数」と呼ばれる図形に出て来る数が使われます。端的に言えば「各次元の穴の数」です。
このことから、ヴェイユは普通の図形に出てくる「ホモロジー」をこの有限体上の代数多様体にも定義できるのではないか!?という考えを出しました。
これが後にグロタンディークによって「エタール・コホモロジー」という形で実現され、これを用いて最終的にはヴェイユ予想が証明されました。

この「ホモロジー」は本来「つながっている」図形に対して定義できるのですが、有限体上の代数多様体には見かけ上「つながっている」図形ではありませんでした。それでも「ベッチ数」という一つの特徴から「つながっている」図形で成り立つように、この図形にも「ホモロジー」が出て来る!と考えたのです。

以上、専門用語をかなり出しましたが、分からない人はスルーしてください。

このように「数」を通して同じ概念を結びつけるのが数学ですが、これはまさに御言葉で言う「このようにこうだ」です。
そのように、岩や木と人にも共通する特徴があります。このあたりを見ながら「人の状態を見る」ことが鄭明析先生のエピソードなのではないか、と私は思っています。

その一方で「数学より次元が高い」と感じたのには次の理由があります。
数学はその性質上「記号で表現できる」ものを中心に取り扱っています。言い換えると「生きているもの」を直接扱うことは非常に難しいです。
しかし、鄭明析先生がしたのは生きている人を万物を通して見るということです。それも「人間全体」でなく、「一人一人」を。
人間に共通するものがあって、それを万物に結びつけることはできても、「それぞれ異なる人間」を「それぞれ異なる万物」から悟るというのは普通ではできません。それを鄭明析先生はしているし、天の言語の御言葉を通して私たちにも出来るようにしてくださっています。

こうやって「刻々と変化していく」自然、神様、世界を自分の近くにある物を通して見られる、というのは「変化しない」法則を捉える数学や形而上学より次元が高い、というわけです。(止まっているボールを見るより動くボールを目で追うのが難しいように)

幸いなことに数学が苦手な人だったとしても万物を通して神様からメッセージを受け取ることはできます。むしろ、そういう人の方が得意かもしれません(^_^;)
それは数学の勉強と万物を通して受けるための考え方は異なるからです。だから、勉強が苦手でも諦める必要はありません。
最近、私も万物や出来事を通して啓示を受けることがありますが、確かに数学を研究するのとは少し違うところを使っている感じがします。
そして、そのように「変化していく」自分や神様のことを知り得る今の生活が、確かに楽しくもあり、嬉しいのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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