子供の言葉と向き合うことについて〜飾らない姿で〜

おはようございます、satoです。

私が仕事をするようになって早数年。その間に様々な出来事がありました。
その中で、とても印象に残っている話を書きたいと思います。

私は色々なところで数学を教える仕事をしています。その中で一番最初にこの仕事をした仕事先での出来事です。
最初は色々不慣れなところもありましたが、教えている子供たちからは良く思われているようだ、という話を正規の方から聞きました。

ある時いつもと違う子たちに教える機会がありました。
いつもと違う場所で急に教えることになって少し焦りましたが、幸い他の職場で教えていた内容と被っていたのでそれをうまくアレンジして教えることにしました。そこの子供たちは比較的数学が得意な子が多く、とても楽しかったです。
その後、いつも教えている子達から聞いた話によると、そこの子達も自分のことをとても気に入ってくれた、とのことでした。実際、たまたますれ違った際に嬉しそうにこのような勉強をしているんです、と話しかけてくれました。
ちょっと嬉しい半面、一体なんでそんなに良かったのだろう?と少し疑問に思いました。

その後たまたまその理由を聞くことができたのですが…。
それが私が「授業中に受けた質問を真剣に聞いて考えてくれた」こと、のようでした。
実際、私が授業した時にある子からとても良い質問が出ました。私自身もすっかり見落としていたところで、考えた末にちょっと曖昧な答えしか答えられませんでした。個人的には「あー、そこもちゃんと考えておくべきだった」と思っていたのですが、どうやらその子たちにとっては自分の話を真剣に聞いて考えてくれたということが大きかったようです。

基本、私は教えているところで出て来る質問や意見に対しては真剣に聞いています。それは私自身が「分からない」「間違っている」ところもあるからです。
私は神様でなく人間なので、自分が考えていなかったところ、見落としているところがあり、もしそのことを指摘されたとしても、それは彼らの問題でなく私の落ち度になる、と考えています。
だから、子供たちの話も真剣に聞きます。無論、子供たちがふざけている場合もあるので、その場合は適切に(できているかはともかくとして)対応します。

考えてみると、これは鄭明析先生の姿勢でもあります。
鄭明析先生の言葉の中で自分が常に心がけたいと思っていることが「子供たちを一人の人として接しなさい」です。
この言葉を私自身の仕事の方針の一つとして行なっています。足りないところが多い私ですが、それでも一つ一つ向き合いながら仕事先の教える人に対応しています。

鄭明析先生も相手が子供であろうが一人の人間として接し、その言葉に真剣に耳を傾けます。
子供たちからプレゼントをされたら本当に喜ぶし、子供たちを楽しませようと色々してくださいます。その姿は「宗教の教祖」とはかけ離れた「普通のおじさま(笑)」です。

先ほど私も「一つ一つ向き合いながら対応している」と書きましたが、大人になると、どうしても自分の弱いところを見せないようにしようとしてしまうところがあります。それは「自分自身のプライド」があるからです。
私自身も自分が「先生」という立場なので、ある程度は出来るように見せないといけない、と意識している部分があります。それは「先生」という立場を崩しすぎるとその場の収拾がつかなくなることがあるから、というのもありますし、自分自身を守るという面もあります。
しかし、人は「できないところを隠す」のでなく「できないところを認め直していく」姿に心を打たれるのです。
その象徴が鄭明析先生なのかな、と私は思います。

私自身も自分と深く向き合い、結構素直になれたところがあります。摂理に来て一番変わったのはこのあたりな気もします(笑)
その御蔭か私と接する人もとても安心してくれている部分があります。
これは信仰的な面でもそうで、摂理のことを知った人が私を見た時に「この人は騙す人でない」と思って安心してくれたみたいです。その後、その人は現在も元気に摂理で信仰を守っております。
人々が私の「飾らない姿」を見て安心してくれるなら、そしてそれによって摂理にいられるなら、それは私を作ってくださった神様に感謝することであり、足りない私の一つの喜びです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。