旧約と新約の聖殿の歴史について

おはようございます、satoです。
今週の主日礼拝の御言葉、主題は『神様がくださった聖殿も、あなたの体も貴重に使いなさい』でした。

3:16あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 3:17もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

コリント人への第一の手紙3章16-17節

6:19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 6:20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい

コリント人への第一の手紙6章19-20節

聖殿とは『神様が住まわれ、留まる場所』を意味しています。
上の聖句では自分たちの体が聖殿、すなわち『神様が共にされる場所』であると書かれています。

肉体を持たない聖三位が地上で様々なことを行うためには、肉体を持った人間が必要です。そして、その体を使って神様が歴史を成されます。

メシアであるイエス様は聖三位の御子がそこに留まり、直接新約歴史の御言葉を伝えることによって、2000年間の新約歴史を始められました。

11:1エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。

イザヤ書11章1-2節

このように、神様を信じて愛する人というのは神様にとってとても貴重な存在です。その体に神様が留まれるからです。
より具体的に言うと、神様がしたいことを御言葉を通して話した時、神様を信じる人はその御言葉を信じて行います。このことによって、実際に神様がしたいことが地上で実現されるのです。

そういうわけで、私達は神様が留まれる場所であり、その体を大事に使ってほしい、というのが主な御言葉の内容です。

ところで、私達の体と同じくらい貴重なのが、建物としての聖殿です。
神様が留まる聖殿がある、ということは『その場所に神様が留まる』ということを意味しています。地上に神様が直接いる、というよりは『その場所に注目なさる』という意味合いが強いと思いますが…。

神様の歴史において『神様が留まれる場所』がある、ということは地上で神様の歴史が成される一つの象徴であり、『その場所で祈る祈りを神様が聞かれる』という双方にとって重要な意味を持ちます。
また、特別に用意された聖殿で皆とともに捧げる礼拝や祈りは一層神様が共にされ、心が神様に近づきます。現在、摂理ではコロナの状況下でオンライン礼拝を各自の場所で捧げるようにしていますが、このような状況で信仰生活がうまくできるのはその前に聖殿で礼拝を捧げたり、祈ったり、色々な話をしたことが大きいと個人的には思います。
(逆に言うと、現在の状況で摂理に来られた方はとてもすごいなと思っています。コロナの状況が早く良くなり、皆で共に礼拝を捧げられることを願っています)

信仰生活の土台という面でも、神様の歴史の面でも、建物としての聖殿がある、ということが重要なのですが、旧約歴史、新約歴史を見た時にこの聖殿がいつ頃存在していたのか、これを歴史を振り返りながら見てみたいと思います。

旧約時代の聖殿の歴史

旧約聖書を見ると、神様の歴史はアダムが神様を認識し、信じるところから始まりました。

5:1アダムの系図は次のとおりである。神が人を創造された時、神をかたどって造り、 5:2彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。

創世記5章1-2節

アダムが神様の御言葉を破って堕落したことによって、その後1600年間神様が現れない期間を経てノアが現れます。ノアが神様を信じたことによって洪水の裁きを免れ、さらに400年後アブラハムが現れました。
アブラハムは『信仰の先祖』と呼ばれるように、その信仰が神様に認められ、アブラハムの血統が祝福を受け、エジプトに移住した後その一族がイスラエル民族となりました。

旧約歴史では、神様に捧げものを捧げることによってその祈りが聞かれる様になるのですが、このアブラハムが現れてからエジプトに移住するまでの間、その場所は石で各自が作っていました。

神にひとり息子のイサクを捧げようとするアブラハムとそれをとどめる天使(『創世記』第22章)。(ロラン・ドゥ・ラ・イール画、1650。オルレアン美術館)

22:9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

創世記22章9節

たとえば、こちらはアブラハムがその子イサクを神様に捧げようとした場面ですが、この時は山に登って、そこで祭壇を築いていたということが書かれています。

28:18ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、 28:19その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。 28:20ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、 28:21安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。 28:22またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

創世記28章18-22節

また、こちらはヤコブが神様と会って生きていたことを記念し、その場所に石の柱を建てて神様に誓っている場面です。
このように、この頃は石によって神様が共にしたことを記念したり、祭壇を築いていたことがわかります。

エジプト移住から400年、神様はモーセを通して、故郷であり、アブラハムに約束したカナンの地にイスラエル民族を導きます。この時には天幕という移動式のテントのようなものを使って、神様に祈るための場所を作りました。
その後、ヨシュアや士師時代を経てダビデの時にイスラエル王国が平定され、ようやく安住の地を得ます。そして、その子であるソロモンによってエルサレム神殿が建築されました。

エルサレム神殿

6:18しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです。 6:19しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがあなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。 6:20どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家に、すなわち、あなたの名をそこに置くと言われた所に向かってお開きください。どうぞ、しもべがこの所に向かってささげる祈をお聞きください。

歴代志下6章18-20節

このエルサレム神殿が初めて建てられた『建物としての聖殿』であり、その後バビロン捕囚によって壊されるまで、この場所で神様に祈り、また神様が多く働きかけてきました。
ソロモンがエルサレム神殿を建築したのはおおよそ紀元前1000年頃、つまり、旧約歴史が始まってから約3000年になります。

新約時代の聖殿の歴史

新約時代はイエス様が福音を伝えるところから始まりました。
しかし、ユダヤ教の人々はイエス様を不信し、信じる人達を迫害しました。その結果、イエス様は十字架に掛けられ、信じる人達は散り散りになって信仰生活を守ることになりました。この頃は建物としての教会はなく、ユダヤ教などの会堂を使って伝道をしていました。

13:13パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。 13:14しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

使徒行伝13章13-14節

17:1一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。 17:2パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、 17:3キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。

使徒行伝17章1-3節

たとえば、パウロは各地で福音を述べ伝えていましたが、どこかの場所に行くたびに会堂に入っていたことが書かれています。

その後、ローマ帝国による大迫害でイエス様を信じていた人-キリスト教の人々-は隠れて信仰生活をせざるを得なくなり、地下の共同墓地でお祈り等をするに至りました。この状態が改善されたのが、313年、ローマ帝国がキリスト教を認めた時です。

313年、ローマ帝国はキリスト教を公認しました。これにより、地下に追いやられていたキリスト教が地上で信仰されるようになりました。

ミサを行うための空間として、教会が建てられるようになりました。そして、人が集まるという意味の『バシリカ』と名づけられました。

キリスト教の教会建築の歴史はここから始まります。

地上で信仰されるようになったばかりのころは、独自の建築技術を持っていなかったので、古代ローマの建築様式で教会を建てていました。

キリスト教の教会建築の歴史 建築様式の一覧まとめ@YoFu’s Taravel Blog

この頃からローマの建物を利用して建物としての教会が建てられるようになりました。有名なのはコンスタンティノープルにあった『ハギア・ソフィア大聖堂』で、こちらは350年頃に建てられるようになりました。

現在のアヤソフィア(ハギア・ソフィア)大聖堂

ローマ帝国がキリスト教を国教とし、多くの教会が建てられるようになってキリスト教はさらに大きく歴史を広げるのでした。

以上、新約時代は始まってから約300年で建物としての聖殿を得るようになりました。

摂理では…

参考までに、摂理ではいつ頃建物としての聖殿を得るようになったのか、というのを見てみます。
摂理は鄭明析先生が御言葉を伝え始めた1978年から始まった、とします。
その際には当然聖殿のような御言葉を伝える場所がなく、あちこちを転々とし、御言葉を人々に話していました。多くの人が集まる場合は集まれるような場所を借りて、御言葉を伝えたりスポーツをしたりしていました。

その後、1990年代に先生の故郷である月明洞を開発し、運動場や野心作などの岩の造形を作りました。そして、建物としての聖殿である『御子愛の家』が2013年頃に完工しました。これが摂理における初めての『摂理が所有する建物としての聖殿』です。おおよそ35年のことでした。

まとめ

このように、神様を信じる人達が自由に使うことのできる『建物としての聖殿』を得るまでには長い歳月がかかっていることが分かりました。
また、聖殿を得るまでの間、迫害だけでなく場所がないことによる多くの困難がありました。

私も摂理に来てから一時期場所を借りて礼拝を守っていたことがあったのですが、時間や色々なことを気にして集中できませんでしたし、機材の準備や移動に時間がかかったことを思い出します。
それを考えると、自分たちが時間を気にすることなく自由に神様と使える聖殿があることがどれほど貴重なのか、改めて感謝したいと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。