satoの数学小説シリーズ「真理の森の数学セミナー」絶賛更新中!

『許す』ということについての考察

『許す』ということについての考察

おはようございます、satoです。
本日は『許す』ことについて考えたことを残そうと思います。

18:21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 18:22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。-マタイによる福音書18章21-22節

このように書かれている許しですが、実際に『人を許す』というのはどうすれば良いのでしょうか?

一番わかり易いのは、自分が人に何かしらの悪い目に合わされた時。
こういうときは、相手が謝ったら「気にしなくていいよ」と言ってあげ、そこでこのことを終えるのが許したことになる、と思います。

では、相手が自分とした約束を忘れていた時は?
もし守れなかったと思って謝ったら「こうしよう」と提案してあげてもいいですし、大丈夫だと言ってあげても、許したことになります。

では、たとえばその約束を守れていないことに相手が気づいていない時は?
一言言ってあげてもいいですし、場合によっては気にしなくても良いかもしれません。

では、少し自分の立場を変えてみようと思います。

もしも、自分が誰かを教えたり、導いたりする「指導者」の立場なら?

自分が相手のことを思ってやり方を教えたとしましょう。でも、相手がそのやり方をできていなくて、うまく行っていない。そんな時に、あなたならどうしますか?

頭ごなしに叱りつける…のはまぁダメだろうとは多くの人が感じることと思いますが、まずは理由を聞き、もしその理由が根本的な問題だったら、それを解いてあげるアドバイスをしてあげます。
でも、それがやる気の問題、考え方の問題という長期的な時は?

できなかったことを「できなかった」で終わらせることは『許す』ことなのか?
それは自分の責任を放棄することになるのではないか?

そんなことを、仕事前に考えました。

指導者が『許す』ということは、単にできなかったことを気にしない、叱らないことでなく『できなかったことをできるようにするまで面倒を見る』ことなのだと、私は思います。
だから、より多くのことを導く人は、多くのことを許さなければなりません。それは、とてつもなく大変なことです。

全人類を導く神様は全てのことを許します。気にしないのでなく、一人一人の最後まで面倒を見ることで。
だから、神様のように生きたいと願う人は、より多くのことを許し、導いていく心が必要なのだと改めて実感しました。そのような責任感を持って生活したいです。

実際に仕事をしていると、一人一人のことを見るようにはしても、気づいたら目を離してしまう…というか指導できていないことが多いです。何年やってももがきです。それなのに、全人類を目を離すことなく導く神様はどれほどすごいことをしているのでしょうか。自分には想像もできないことです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

日常生活カテゴリの最新記事