おはようございます、satoです。
今日も仕事が終わり、歩いているときにふとあることを思い出しました。
そういえば、私はかつて哲学や形而上学的な問題を考えるのがとても好きだったということを。
数学が好きな私ですが、それ以外にも「どのように世界が存在しているのか?」「今いる自分は本物なのか?」「命とはどういうものなのか?」という問題を考えるのもとても好きでした。
自分が内面に持っているキャラは本物なのか?そもそも人間を人間たらしめるものとはなにか?
摂理の御言葉を聞いて答えを得たものもありますが、そうでない問題もあったような気がします。
色々な漫画を読みながら、自分なりの世界観を作っていた時期もありました。
今でもそういう世界観や法則に触れるのはとても好きです。
そもそも聖書の勉強を始めたのもそういう世界観を作りたくて、世界がどのようなものなのかを自分なりに知りたくて…という欲求がきっかけでした。
それじゃあ、今読んでいる漫画やアニメ、聖書、自分の経験をそのような問題の考察の材料にするか?
これについて、私はこう思いました。
「そんなことより自分に良くしてくれたことに対する感謝と尊敬の心を持ちたい」
と。以前ならこの問題について絶対的な価値を持っていた私が、今ではそれより「自分が幸せになること」「周りを大切にすること」に価値を置くようになっていたのです。
まさに次の聖句の通りです。
‘もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 ‘
口語訳聖書 ピリピ人への手紙 3章4-9節
かつてパウロも律法を堅く信じ、それを最高だと思って生活していました。
しかし、イエス様と出会い、その御言葉を聞くことで過去持っていたものを糞土のように感じ、捨てていたのです。
そのようにかつて執着していた知識や自分の世界観のことをいつの間にか「大事だ」と感じなくなったのです。
それ以上に愛や喜びを大事にするようになっていました。
もちろん、自分の世界観を作ること自体は今でも好きです。
でも、それより大事なものが増えたのだと私は思います。
もっと神様に近づいて、楽しく生きたいと思います。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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