愛を受け止める、その覚悟。

おはようございます、satoです。

「神様は私を愛している」

この言葉は摂理に来てたくさん聞きます。
私もこの言葉を本当に多く聞いてきました。

しかし。
この言葉を、果たしてどれくらい深く受け止めているのだろうか?
私自身、ふとこのことが気になりました。
本当に、私は神様のことを愛しているのだろうか?
本当に神様の私への真摯な愛と向き合えているのだろうか?

このことについて深く考えた時の話をしたいと思います。

自動車学校の実技をやっていた時のこと。
その日で3回目なのですが、曲がるのがとても苦手。なんか「曲がる感覚が掴めない」。
そんなことを教官に話した後、早速やってみたところ原因が「曲がる先を見ていない!」ということを即座に見抜きました(゜ロ゜)
確かに、私は「どうやって動かすか」とか「次どうするんだっけ?」とか「教官の話聞かないと」とか、そういうことに考えが囚われていて視線を意識していなかったのです。さすがベテラン…。

私の場合、「一つのことに意識が向かうと他のことへの注意が散漫になる」傾向が強いため、こうなりました。
途中「左折→右折」など複数の動きをしていくときに至ってはどういう動きをするのかに気を取られ、「左=曲がる先の内側(?)」という認識になり、結果左右を混同し間違えるに至ってしまいました(-_-;)これには教官も苦笑(((^^;)
元々左右の区別が苦手な方で未だに「箸を持つ方」が右、ということで「箸を持つジェスチャー」をしないと安心できないんです。たぶん「左右の感覚」が弱いのでしょう。
(感覚が弱いのと「感覚は不安定だから信用できない」という考えとは相互関係なのですが、どちらが先かは不明…)

教官の声を聞きながら見るべきところに集中すると、だんだんと上手く行くようになりました。実は教官がいつもの人と違ったので最初はちょっと緊張しましたが、打ち解けられるようになりました。
その教官が話している言葉でとても印象的だったのが

見ている先にハンドルが行く。
目とハンドルは同じだ。

というものでした。
正しい方向さえ見ていれば、自ずとハンドル、そして車はそこに向かっていく…確かに、教習で実際にそのようになったので、納得しました。

このように。
私が神様のことをきちんと見ていれば、体は自ずと神様の方に向かっていくのだ。

私は、摂理の御言葉…「あれしなさい」「これしなさい」「こうしてはいけない」という言葉を聞いて、「自分がどのようなことをするのか?」ばかりに気を取られていました。
でも、御言葉の核は「神様」です。
私が神様のことをきちんと見ていれば、自然と考えも行いも神様の方に向かっていく…。
本当に「見るものの大切さ」を再認識しました。

そんなことを考えながら、神様の愛について考えたときに、ふと午前中見た次の話が思い出されました。

恋愛音痴の受難〈前編〉―cakes

こちら、高校生で中原中也賞を獲った詩人の文月悠光さんが現実の様々な体験を文章にしていくという「臆病な詩人、街に出る。」という連載の一つで、内容が「ある日二人の男性から告白され、思い悩む」という話です。
札幌出身で「言葉に長けている」ということやその心の流れに共感してまして、ここを起点として自己分析をしてました。

で、この記事を読んだ中で私が気づいたのは

本当の恋愛は「私の認識」とは違っていた

ということ。
私は恋愛と聞くと好きな人とダベったり、手を繋いだり、心を寄せ合ったり…ということをするものだと、そう認識していました。
しかし、この記事の中にある告白を読みながら、本当の恋愛とは…本当に「愛する」というのは…「ただあなたに、私の全てを捧げる」という、その決心と覚悟なのだ、と気づきました。
ただ一人、この人だと決めて、私の体も、心も、人生も、全て捧げる。その覚悟の上にある告白。

そして、神様は「その覚悟」を持って、全力ですべてを捧げる覚悟で、そして実際に私の全てを与え、私にすべてを託す覚悟で「愛している」と告白したのだ、とやっと気づきました。

それに比べて、私の恋愛に対する認識の如何に浅はかで軽いことか…。
ただ「嬉しいこと」ばかりを考えていたのですから…。

本当に神様を愛するということは、神様にすべてを捧げることだ。
自分を全て捨て、神様のところに来ることだ。

そういう言葉は聞いていました。
だけど、それをしようとしても心からできない私がいました。捨てたくても捨てられない。どう捨てたらいいのか分からない。

でも、それも「捨てること」ばかり見ていて「神様の想い」は見ていませんでした。
神様の…「全てをあなたに捧げる」という愛は。

それに気づいた、気づいてしまった私。
逃げずに、受け止め、向き合って。
気づかず、向き合えなかったことを悔い改めて。
そして、不安を振り払って…。
私も、その愛受け止めます。私も、愛してます。その人生を共に生きます。
そう告白したとき、感謝と喜びを強く噛み締めるようになりました。

こんなにも私を愛してくれるなんて!
神様の愛がこれほどにも大きく、その愛を私が、私一人が!受けられるなんて!
本当に、ただ感謝しかない。喜びしかない!

終わってみれば、神様との愛が一段と深まった時間でした。まるで、結婚したかのような愛を再び感じられた時間でした。
このように向き合う機会をくださった全ての人に感謝します。そして、こんなにも愛してくれる神様に感謝します。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。