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祈りによって、私は存在する。

こんばんは、satoです。

今日は、かなり切実に祈りました。
自分の中で考えがまとまらず、危機的に感じたのでとにかく必死に祈りました。
自分の心を掴めるように。
主のことを考えられるように。
自分の考えが肉性に流れてしまわないように。
朝からずっと祈りました。

やっとのことで、御言葉を聞きながらようやく自分の心を掴むことができました。
生活する中でぶつかる「自己中心的な考え」とか「肉が持つ習性の考え」とか、そういったものに少しでも流されると、時間があっという間に奪われてしまいます。
その時間にどれだけ神様のことを考えられるか、そこが勝負の分かれ目です。

一歩でも考えがずれてしまったら、あっという間に流されるこのとき。まさに「デッドオアアライブ」という状態です。

こういう風に生活していて気づくのは「如何に自分が自己中心で、足りない生を生きていたのか」です。
一人になったとき、自分が何を考えていたのか?
どういう気持ちで仕事や研究をしていたのか?
こういう時、自分の心の根底にあるのが「自分はできない、自分はダメだ…」という考え。
自分のダメなところ、罪を見て「ダメだ…」と諦める考え。

そんなことないのに。
ここまで前に来たのに、ここまで共にやってきたのに。
ここまで、あなたは熱心に私を愛してきたのに。

そうおっしゃる、主の声が、感じられました。

昔熱心にやったとしても、今やらなければ「存在」できない。
そう、御言葉でおっしゃいました。つまり、「昔やったように、今も熱心にやれば、今も昔のように愛で共にする」ってことなんです。
昔は熱心にやったことがなかった、つかみどころがなかった中で必死にやって来たけど、今は「昔やったこと」がある。
あの時だって必死になってできたから、今もできる。
昔やったことは、昔存在させるところに使った、ともおっしゃいました。
昔やらなければ、今の私は存在しません。

馬鹿だな、私…。
自分の今を見て諦めそうになってしまってたなんて。
こんなにも助けてくださる神様と主がいるのに。
こんなにも助けてくれる摂理の人がいるのに。

とにかく、今は必死につかみます。
あの時熱心に、必死に、命を懸けてやったように。
今も、必死に祈り、主をつかんでいきます。

その先に、最高の祝福があることを確信して。

…祈らなければ自分の考えに陥り、主の愛も声も聞こえません。
祈る土台の上に、御言葉が聞こえてくるのだ、と改めて感じました。
切実さの上に、主が掴んでくださるのだ、と感じます。
祈りによって、私は私を存在させていくのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代まであと一歩。数学者を志す大学院生で、教育系の仕事もしています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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