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トラブルに遭った時の3つの思考~どうやったら失敗を楽しめるか~

おはようございます、satoです。
今日は私のこれまで持っていた自己主観が一つ変わった話をしたいと思います。

神様を信じて信仰生活をしていると、時たま

「予測外のトラブル」や「失敗」

が起こります。もちろん、神様を信じていなかったとしても起こります(笑)

たとえば、

・仕事でうっかりミスをした

・自分たちが教えていた生徒がいい成績を取れなかった

・御言葉を教えていた子が突然事件に巻き込まれた

・イベント当日になって使っていた場所で突然電気がつかなくなる

など、明らかに自分が原因のものから、傍から見たら完全な事故のようなものもあります。

それが起こった時に、どのように捉えるかは人それぞれです。が、実は信仰を持っていると以下の3つに集約されるかなと個人的には思います。
(あくまで私の考えですので、違ったらごめんなさい)

①全てのことを他人のせいにする

まず、何かが起きた時に原因を追求した結果、自分以外の何かを原因だと考える人。
こういう人は、大抵原因となったものを責めて、「どうしてこうなったんだ!」と怒ったり、嘆いたりします。

…御言葉を聞いてて、こうなる人っている?と思いますが、いるにはいます。
でも、実は潜在的にこれをやっていることもあるのです。

サタン(邪魔するやつ)のせいにする、という形で。

たとえば、御言葉を聞いていて不利益が出てくる時、御言葉を聞けなくなるようなことがあった時に「サタンのせいだ!」と考えて怒ったり、とかですね。
自分の仕事で失敗した時に「サタンのせいだ!」という人もいる、って御言葉で聞いたこともあります。これは極端な例ですが。

②全てのことが自分のせいだと思う

逆に、色々なことを「自分がこうしたから…」と考える人もいます。
特に信仰を持っているかどうかは別として「真面目で優しい人」はこうなりがちです。

これは特に自分の行いで失敗した場合になりがちですが、信仰を持っている人だと、完全に自分の原因でなかったとしても

自分の罪のせいで、このような状況になった

という風に考える極端な人もいます。私もこのタイプでした。

たとえば、会場が突然使えなくなった時に「自分が罪を犯したから、会場が奪われてしまった」と考えて自分をかなり責める、という形ですね。

 

3つ目のことを書く前に、私が持っていた自己主観のことを話します。
私は先程も書いたように、全てのことを自分のせいだと感じる人です。
特に自分のことより、他の人のことに対してこのように考えていました。
私は摂理にいる中で色々失敗をしている(御言葉に反した行いをしている)ので、そのことがやはり引っかかっていました。
もちろん、告白して悔い改める祈りはしています。が、それでも、やはり「自分が汚い」と感じてしまうのです。
(前々回の記事にも書きました)

昨日もそんなことが起こりまして。普通だったら怒らないようなトラブルが、よりにも寄って企画開始直前に起きたのです。
それを見て、私は

「あぁぁ…以前に犯した罪がまだ拭えていないのか…」

と考えてしまいました。

 

こんな感じの私ですが、流石に信仰歴10年、数々の失敗を乗り越えてきたので心の状態ははともかくとして、その状況からフォローするという行動は身に着けました。
今回も、私やその場にいた人たちでなんとか企画ができるように色々試行錯誤しました。
特に今回は自分がやり慣れていた使命だったこともあったので、現状把握と復旧作業もなんとかなりました。本当になんとかね…。
というわけで、企画は無事開始。当初予定されていたイベントも状況に合わせて変えていき、むしろ皆が一層楽しめるような素晴らしいものになりました。
そして、全てが終わった後にトラブルも解決!という素晴らしい結果になりました。

実は私、この時密かに感じたのです。

あ、これ月明洞でイベントをしているときと同じ感覚だ

と。月明洞で修養会をしているときとか、状況的には失敗した~と思っても、むしろそれを生かしてより良いものにしてくださる、ということがあったり。
暗い中で賛美したり、スイカ食べたり、とか。

そのとき、気づいたのです。

私は今まで「自分のせいで失敗した」と考えて、責めていました。
それは人から責められるという経験と予測が働くからです。
だけど、摂理の人、特に多くの指導者は、トラブルや失敗が起こった時「他人を責める」でもなく「自分を責める」でもない、第三の捉え方をしていました。

③その状況を「神様が与えてくださった」と考え、そこから神様を愛そうとする

それが、失敗を失敗と捉えて終わるのでなく、その状況に「感謝」したり、その状況を「乗り越えよう」としたり、前に進む、という姿勢です。
無論、私自身も長年生きてきてこれが身についてる部分はありました。ただ、失敗した原因が自分にある、ということは引きずっていました。
実際、今書いてみて改めて思いましたが、今回のトラブルは冷静に見て私が原因でもないし、むしろこのトラブルを通してもっと楽しくなる結果になりました。
これを神様が与えてくださった…と考えるかどうかはさておき、結果としてもっと良くなる道になったのです。
それは、私を含む現場にいた人が立ち止まらずに最善を尽くしたことと、そこに神様が働いてくださった、という両面があったからだと思います。

私は聖書を読んでいて、多くの人が失敗した結果神様が御心を変えて、良くないことが起きた例をたくさん見ていました。
それが、「自分のせいで失敗した」という考えに結びついていたのかもしれません。
ですが、聖書には、同時に「神様を信じる人がどのような状況に置かれてもそれを御心につなげていった」という例も多く存在しています。
その違いは神様を信じなかった/信じたでした。

今回の出来事を通して

いついかなる時も「神様を信じる」こと。

それがいちばん大切なことである、と認識を改める機会になったのでした。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代まであと一歩。数学者を志す大学院生で、教育系の仕事もしています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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