聖書を基に、神様の存在証明について考える摂理人。

おはようございます、satoです。
先日デカルトとパスカルの比較をしながら、神様の存在証明について書いたのですが…。
よくよく考えると、神様って演繹的に存在を証明できるものではない気がするんですよね。
なぜかと言いますと。
出エジプト記3章14節
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
先日も引いたこの聖句。
神様は有って有るもの、つまり神様は自体で存在される方だと鄭明析先生は御言葉で話されました。
これって裏を返すと神様が存在することは、他の何かによるものではない ということではないでしょうか?
演繹的な論理というものは、常に原因→結果という流れで進んでいきます。Aが成り立つから、Bも成り立つ。という流れです。
ところが、神様の存在というのは神様自体によって成り立っているということを先の聖句は話しています。だから、演繹的な論理で神様の存在を保証することはできないのではないでしょうか?
しかし、一方で「日々の出来事」から「神様の存在を証明する」ことはできます。これは「帰納的」な論理ですね。帰納的な論理の流れとは、「ある結果から、その原因を見出す」ものです。
ローマ人への手紙1章20-21節
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
神様は全ての万物を「それを通して神様を感じられる」ように作られました。
だから、全ての出来事も、よくよく考えてみれば神様につながっていくのです。
どの分野でも、それを突き詰めて考えた研究者の多くが神様を信じていくのを見ると、この聖句が正しいものであると感じます。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。