摂理人が見た「世の中と聖書、イエス様編」

おはようございます、satoです。
キリスト教について一番疑問に思うところ、それは「神であるイエス様がどうして十字架にかけられ、人間に殺されたのか?」です。
もしイエス様が全知全能なる神様ならば、人が殴っても傷がつかないし、槍で突いても刺さらなかったと思います。そもそも人に捕まるなんてこともなかったのでは?と考える人は多いと思います。
事実、聖書の中でも十字架にかけられているイエス様に向かって「あなたが神の子というのならそこから降りてみよ」とユダヤ教の祭司長が言いました。彼らも「イエス様が神様の子なら全能者であるはずだ、だから十字架から降りれるだろ!」という考えがあったのです。
また、イエス様が死んだ後、槍で刺したら血が出たのを見て「やはりイエスは人間だった」と考えた人もいたそうです。
私のブログに「時々オタク。」とついているので(笑)少しマンガ・アニメの世界を見てみましょう。
とある魔術と科学が交錯するラノベには、「神の右席」なる組織が出てきます。そこに属するメンバーは皆とんでもない能力を持っているのですが、これらは皆聖書、あるいはキリスト教の伝承由来のものです。
その中で「左方のテッラ」の能力は「すべての優先順位を替える」というものです。これは例えば「鉄より紙の方が強い!」とすると紙で鉄が切れる、ということが起こったり、「爆発より自分の体が強い!」といすると爆発しても自分の体に傷がつかない、ということになったりします。…トンデモですよね(笑)
この能力の由来はなんでしょうか?
実はこれも先程書いた「神の子であるイエスが人間に殺された」という事実から来ています。「本来全能者であるイエスは人間に殺されるということはあり得ない!しかしそれが起きたということはイエス様と人間の順位が変わったからだ」という解釈です。
一方で、現実のキリスト教の人々はこのように解釈しています。
「神様は私たちを救うために、神様の子であるイエス様を十字架にかけたのだ」
つまり、神様は「自分の子であるイエス」より「人間」を優先して、私たちの罪を負ったイエス様を殺すことによって、自分達を罪から救おうとしたのだ、ということです。この解釈もある意味で「神様の子と人間の優先順位が変わった」と言えます。
しかし…これは本当にそうなのでしょうか?
もしこれが事実だとしたら、「神様は自分達の罪を死ぬことでしか解くことができない」ということになりませんか?
そもそも「人間に殴られ、十字架につけられるままにされ、殺された」全能者って…あまり頼りにならないような。
この疑問について、鄭明析先生はどのように教えてくださったのでしょうか?

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。