新年最初の認識の転換「結果より過程が大事」

おはようございます、satoです。
新年に入って摂理では「神様に栄光を帰す期間」を過ごしております。
これはどういうものかと言いますと、鄭明析先生が「自分達が栄え、健康に良く生きられるのは神様のおかげだ」と考え、みんなが神様に栄光を帰そう!と年初の15日間を「神様に栄光を帰す期間」と定められたのです。
具体的に何をするかは各個人、教会に任せられてますが、韓国では月明洞に集まって栄光を帰しているようです。
私の教会でもさまざまに神様に栄光を帰すイベントを行っています。

ところで、そんな中私はどうもすっきりしない状態が続いていました。
具体的には「なんかやる気が出ない…」という状態で、どうも心にエネルギーがない感じが続いておりました。
ちょっと体調不良だったこともありますが、それ以上に「やる気が出ない…」という状態で、いろいろなイベントも参加していましたが(無論楽しんで栄光を帰しているところはありますが)、心の中で「みんなに合わせている(自分から積極的にやっていない)」感じがあったのです。

そんな状態が続いていて、何もないとダラダラスマホをいじって過ごしがちな中、年末からずっとお祈りのテーマになっていた「神様の愛をちゃんと受け入れられるようにすること」「無条件自分が存在していいんだ、という感覚」についてお祈りをしました。正直あんまりお祈りできる状態でもなかったのですが、このことはずっと課題だったのでなんとか頭に考えながら理解しようとしました。

そのときちょうど鄭明析先生の「神様に栄光を帰すこと」についての御言葉を聞く機会がありました。
上のことについてお祈りをしながら、どうしてもダラダラしてしまうことを悔い改めながら認識の転換を試みていたのですが、そのときに次の御言葉が伝えられました。

神様が天地を創造した目的は「神様に栄光を帰すため」だと言われてますが、そうではありません。
一番は「神様を愛すること」です。「神様を新婦の立場で愛すること」が神様にとって一番の栄光です。

私はこの御言葉を聞いたとき衝撃を受けました。
「神様を愛することが一番なんだ…」と心に強い衝撃を受けました。それと同時に今まで自分が持っていた「頑なな認識」に気付きました。
私は「神様の御心が成される」結果が成されればいいんだ、神様もそう思っているんだと考えていたのです。簡単に言うと「結果主義」ですね。

例えば神様が「Aをしたい」と考えていたとします。そうしたら、私は「Aが成される」ことが最も大事だと考えていたのです。
それがどのように成されたとしても。
だから、「自分がやらなくても神様が結局行うなら、自分が行う理由はないのでは?」と考えていたし、「自分がいなくてもいいや」と無気力になるし、「それが成されないなら、自分がいる意味がない」とも考えていたし、「結果がなされないと怖い」と考えていました。
しかし、よくよく考えてみたら「Aを成すこと」は全能な神様にとっては「やろうと思えばできること」であり、無論成されること自体は大事ですが、そこまで問題はないのです。
そうなると神様はどこにもっと重きを置くか、それが「神様を一人一人が愛して行うか」です。つまり、神様にとっては「結果以上に過程が大事」なのです。
その人が神様を愛して行うなら、たとえ失敗したとしても問題ありません。結果は神様の力でどうにでもなるからです。

このことを悟って、「結果だけ考えて形式的に行なっていた部分」を悔い改めたところ、今日になって「心なしかやる気が出てくる」ようになったのです。
お祈りもちょっと深くできるようになり、朝からのイベントにも参加し、ちょっと残っていた作業を進めることができました。(…スマホをいじってダラダラするのはあまり変わっていないような気もしますが笑)

結果主義という自分の傾向は直すのに時間がかかると思いますが、つど「神様を愛して行なっているのか」、その過程を確かめながら喜んで栄光を帰していきたいと思います( ´ ▽ ` )

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。