最近「深く理解できる」ことが増えてきた気がします。

おはようございます、satoです。
ここ最近ようやく仕事がすべてひと段落しました。私の仕事の関係上3月が一番仕事が少ないです。その分経済的な面は苦心しますが…今が一番研究の時間が取れる時期です。
実は最近研究の結果を発表する機会がありまして、このタイミングでここまでの計算をまとめて整理していました。
その関係で前に研究していた時の結果に加えて「証明から外れそうな条件」の例も計算してみました。
前に研究した段階で「一つの仮説」を立てており、それを「いくつかの条件」で証明することができていたのですが、今回は「その条件から外れた例」を考えたわけです。

前にも書いたかもしれませんが、私の場合数学の研究で一番得意なのは具体的な計算を行い、そこから「パターンを発見」して定理の証明を完成させるということです。
なので「具体的な計算」ができない状態だと私はかなーーーり弱いです_:(´ཀ`」 ∠):
今回は具体的な計算ができる問題を設定し、そこから例を思いついては計算し、そこから分かったパターンを用いて問題を設定、証明を完成させて、次の命題を設定、具体例を計算、証明を拡張…という状態を繰り返しているわけです。

そんな感じで計算を繰り返したことで仮説の証明の方法を思いついては行き詰まり、もう一回計算して証明して、そこで方法を思いついて…と繰り返すなかで今回計算した結果を踏まえて考えたところ、割と筋が良さそう、というところまできました。ここまで来ると後はこれを一般化するところまで行きます。できるかは不明ですが。

ちなみに、私の証明は手計算でできる範囲で済ませられる(必要な知識はそこまで多くない)のですが、その分若干複雑な計算になっていたりします。加えて今のところ「場合分け」が多いというのが問題点。
私の修士論文の証明も「場合分け」がかなり多いのが難点で…。もう少し本質的なところが分かると短縮できるのかなと思うのですが、こういうのが非常に苦手で(´っ・ω・)っ

最近は一番楽しい時期です。並行して論文にしておきたいなぁと考えています。

ところで、これとは別に「聖書」の方も通読中です。
今はイザヤ書を読み進めているのですが、不思議なことに今まで普通に読み飛ばしていた内容の理解が進みました。
これまでは背景が理解できないままなんとなく神話かのように読んでいたのですが、最近聞いた鄭明析先生の御言葉で聖書の背景を伝えられたことでこの時代の人が何を求めて聖書を読んでいたのか、を見ることができるようになり、それに従って「新約時代につながる箇所」が分かったり、「この時代との共通点」が見えてきたり、と発見があったところにペンで印をつけたり、とどんどん深く理解できるようになってきたのです。

ここで不思議と言ったのは聖書と数学研究で新しい発見が同時に起きたことです。
これがどのようにして起きたのかと考えたのですが、一つ確実に言えるのが自分の心の回復が進んだことです。
今も過去の自分の理解、心の理解を進めてきたのですが、特に間違ったことをした時に怒鳴られたトラウマを告白して以降「間違っていた認識を間違っていたと認める」ことが以前より容易になりました。このことで「自分の間違った認識を間違っていたと悔い改める」ことが素直にできるようになり始めました。どうもその辺りから自分の心のコントロールが容易になった印象があります。

未だ人から間違っていたこと(というよりおそらく心?)を指摘されると落ち込みやすいし、思いっきり人に迷惑かけると死にたくなるくらい苦しいのですが。最近だと最初に書いた発表で思いっきり時間オーバーした上に肝心の発表したい内容を話せなかったということをやらかし、内心「せっかく呼んでもらったのに、こんな発表で申し訳ない…」ってなっていました。
ただ、このようなミスをした上で周りを見て「まぁ大丈夫そうかな…この経験は次に活かす(発表内容を事前に精査して時間に合わせて絞る)として、切り替えよう…」となったし、神様に「やらかしましたぁ〜〜!!せっかく発表準備していたのに…やらかした…」と告白できるようになってきたので、その点は成長でしょうか。

そんなわけで、確実に変化をしている私の心。もっと大切にしつつ、どんどん回復させていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。