自分の問題:共感性、愛したいけど愛せない…?

おはようございます、satoです。
最近色々あって抜けていたのですが、私は現在自分の根本的な問題と向き合いながら生活をしております。
…抜けていたことを最近の牧師さんとの対話を通して思い出して、その後明け方にお祈りをしてみました。
そうするとあるところで抜け落ちるのですが、それが人との共感性が欠けている…かもしれないということです。

具体的には、人が何かしらの感情を発している時、それを感知することはできるし、具体的に対処できる時には積極的に対応します。しかし、どうしても「自分は同じ感情でない」と認識してしまうのです。
例えば、ある人がBになったことによって深い悲しみに陥っている時、その悲しみは感じ取れるし、それを見て自分も悲しい気持ちになるのですが…「その人が悲しんでいる」という事実を見て悲しくなっても、「Bになったこと」自体には何にも思っていない、という感覚があります。

とにかく、なんと言いますか「他の人と違う感じ方をしている」というのは分かるんですよね。
ただ、具体的にどう違うか…と言われると…うまく答えられない…。

もしかしたら、「自分が人と違う感じ方をしている」ではなく「人に対して、自分が『この人はこう思っているんだ』って認識していることがずれている」可能性は大いにあります。

実は最近この感覚と非常に似ているキャラを見つけたのですが、それが【推しの子】のアイです。
黒川あかねによるプロファイリングによるとアイは「発達障害の傾向あり」とのことのですが、実際彼女はアイドルに対する姿勢とか、その他色々な要素はありますが、それとは別になんとなくですが「何か感じ方、捉え方が違う」ような浮世離れした感覚があるんですよね。とにかく常人のそれでない感じ。
確かに彼女は家庭環境が劣悪なこともあって愛着障害のような傾向もあったらしいんですが、個人的にはそれとは別に「人と違う」存在って感覚もあるんですよ。

でもって、これは私がそうなんですが、人と感じ方は違っても、人と同じ感情は持っていて、本当は寂しいし、助けてほしいし、仲良くしてほしいんですよね。
本当はもっと多くの人と触れ合いたいし、仲間の輪に入りたいんです。
…だけど、実際に入るとうまく適合できない。そんな感覚です。

アイの物語について一つ話すなら、彼女は「誰かを愛したくて」アイドルをやっていました。
元々「人を愛せない」と考えていた彼女が、スカウトした社長の「ウソでも愛しているって言っていい」「本当は誰かを愛したいのでは?」という言葉を聞いて、そのウソが本当になることを願って、ひたすら本心とは違うけど「愛してる」と言い、ファンのために笑顔を見せていました。
彼女は最後の最後、死の間際に子供たちに対して「心から」愛している、と言ったことでこの願いが叶った…とは言い難いですが、少なくとも本心からの愛は得られました。

私の根本の問題の一つはある種この物語と重なるところがあります。要約すると「愛したい」のです。
現在推し活をしながら、何かを愛でる感覚、好きな感覚は少しずつ得られてはいるのですが、どうもそれがうまく向かない…人に適応できない感じがしているんです。

「愛したい」と思いながら「愛してる」って言う、本当にやりたいとまでは言えずとも「やりたいと思いたい」と思ってやってみること、これがアイの話で私が応用できそうだなと思ったことです。
「偽る人は天国の外にいる」という聖書の言葉もありますが、この場合「やりたい」というのが本心でなくても「やりたいと思いたい」と思う心は本心で、「やりたいと思う」ために行動することは真実な行動だと思います。

アイが多くの人から慕われた、その一因は「ウソの中にあった”誰かを愛したい”という真実」が感じられたからなのかな、とそんなことを思いました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。