おはようございます、satoです。
続けて書いている「自分の内側と外側の世界の話」と繋がっているものなのですが、これについていろいろやる中で思ったことを記録していきます。
以前書いたように、自分の新しい課題として「自分の外側に意識を向ける」ということを試みています。
それによっていろいろできるようになったところは確かにあって、たとえば周りのゴミを捨てることとか、相手を意識しながら話すとか、神様の自分に対する働きかけや聖書を通してどのように人間を愛してきたのかを気づけるようになったとか…こう書くとかなり変化をしているように感じます。
特に最後の一件はこれまで自分が比較的苦手だった「相手視点で物事を認識する」ということに繋がっているような感じがしまして、これができたのはとても大きいのかなと感じております。
しかし、その一方でまだちょっとうまくできないなぁ…と感じたこととして「相手が何か話をしている時に、これを受け止められない」ということがありました。
これは内容自体の理解もそうですが、「相手の気持ちを受け止める」ということもあります。何か良くしてもらった時に「感謝の気持ち」より先に「緊張」が出てきて逃げ出してしまう…ということがよくあります。
これは主に二つの要因で起きていると分析しています。
まず一つは「一回の情報処理能力が、情報受信能力より低い」ということです。そもそも、耳からの聞き取り、情報を理解することが苦手な私ではありますが、たとえそれを認識できたとしてもその内容を理解するのにとても時間がかかるということが多くあります。これは目で見ることで情報を得ている場合でも同様で、内容をインプットすることはできるのですが、その理解の解像度がかなり荒いのです。
それゆえ、初めて来た場所のルールを予め文章で読んでいたとしても、実際にやってみると「読んだ上で認識している状況と違うこと」が割と多くあり、結果としてそのギャップでいろいろ失敗したり、失敗しなくても対応するのに数倍の労力を使うことになりがちです。
こう考えると、一回辺りの情報処理の能力(速度?)はそこまで速くなく、結果として多くの量を処理するのにかなりの時間が必要となります。しかし一方で、私の情報感度はかなり高い方で聴覚・視覚・その他の感覚、いずれも「細かい情報を一気に感知している」と感じることがしばしばあります。HSP傾向と呼ばれるものですね。これは「人が気づかないような細かい違いに気づける」とか「人が気にしないことを気にする」とかに出ていると見ています。
このように「情報処理」が「情報感度」より低いと「一度で一気にたくさんの情報が入る」のに「それを処理するのにとても時間がかかる」ため、結果として脳がフリーズしてしまうということが起きているのかもしれません。あくまで仮説ですが。
そしてもう一つあるかもしれないのが「人に対して心を開くのに時間がかかる」ということです。
前提として、私は基本的に「自分が/人が、正しい/間違っている」という判断をするより「ひとまず受け入れる」という対応をしています。これは摂理に来ているからそうしている、というわけでなく、昔から「自分で判断せず、相手の主張を受け入れる」傾向にありました。これを指して「自分がない」という表現をすることもできると思います。
一方で、「これが本当に正しいのだろうか?」「今自分は正しくできているのだろうか?」という基準があまりなく、そのことで「不安」になりがちです。この結果、特に初対面の人と話した時に「この人に対してどのように接したらいいのか?」を気にしてしまう、ということが起こりがちです。
これを一言で話すと私の中で「安全圏がかなり狭い」という一面があります。「これは間違いなく認めていい」というものが割と少ないとも言えます。
ここまで色々書きましたが、牧師さんにこの話を踏まえて相談した際に「自分の特性・傾向を踏まえて、神様と向き合っていけばいい」という方針をいただきました。
確かに、これまで書いてきた内面の問題は「一つのこと(特に自分のこと)に過集中してしまう」という特性由来のものもあります。それを改善しようという方針で結構色々やっていたように思いますが、どちらかといえば「これを改善する」というより「この傾向を織り込んで、その上で神様の愛を見つける」ということをしていく方針ですね。
先ほどの「自分が正しいという基準が薄い」ゆえか、自分の内面の問題として捉えてしまっていたのです…。
これは間違いなくそうですが、自分が摂理に来れて、今も存在しているのは神様が「私の心を見て、選んだ」から、に他なりません。
16:6彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。 16:7しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。 16:8そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。 16:9エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。 16:10エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。 16:11サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。 16:12そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。
口語訳聖書 サムエル記上16章6−12節
それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた。
口語訳聖書 使徒行伝13章22節
無論、色々改善の必要なところはありますが、それでも自分の心が神様の心に叶う部分があって私が神様と出会えたという事実に変わりはありません。これは私だけでなく全ての摂理にいる人がそうです。
なので、そのことには感謝しつつ絶対の自信を持って(そうでないと選んでくださった神様に失礼)取り組みたいなと思いました。今日も大事なことを人を通して教えてくださったことに心から感謝します。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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