私の「元の土地」とは…?

おはようございます、satoです。
今週の御言葉の中で「神様から離れると元々したがっていたことをするようになる」という話がありました。
これは言い換えると「自分の捨てられないもの」となり、それが神様から離れる要因になりかねないから、自分の中にある「元の土地」とはなんだろう?と考察するようになりました。

しかし、私が摂理に来る前にやりたかったことはあまりなく、数学研究とかは摂理に来る前からやりたいですが、今でも信仰の下数学研究を仕事にしているので該当しません。むしろ数学の場合は信仰があった方がやりますし、捗ります。数学は「信仰」側です。
アニメや漫画を読みたい、ゲームをしたい、も摂理に来る前からやりたいことでしたが…これ自体は(情報こそ知りたいという欲求はありますが)強く求めるものでないですし、神様を離れてまでしたいことでもないです。それに摂理に来たからと言ってこれらのものができなくなる、というわけでもないですし。

じゃあ逆に「何もしないこと」が「元の土地」なのか?とも考えましたが、これも怪しい。
実際「何もしない」ということは苦痛で…むしろ疲れて何もできないというのが割と辛かったりします。

このように考察を色々してみました。

自分の心が信仰から離れた時に出てくる傾向。

昔から自分が持っていた願望。

そして、神様から離れる可能性になりうるもの。

最初に気づいたのは「傾向」でした。私の信仰が弱くなると「こうなる」傾向にある、というものは確かにありました。
その中でも一番「神様から離れる可能性になる」もの…それは、確かに「摂理に来る前から持っていた願望」でもありました。それが

「誰のことも気にせず、一人で自由に生きたい。誰かの心を考えて動くのは苦しい」

という願望です。もう少し短く言うと「自分のことだけ考えて生きたい」です。

元々人と接していて「人の気持ちを読み取ることが苦手」だったり、「自分の世界に入り込みやすい」私だったので、人とたくさんトラブルがありました。同時に、人のことを考えられない自分がとても嫌で、この嫌な感情から逃げたい、というのがこの願望の由来でした。
人のことに気を遣いすぎて、気を遣えない自分がとても嫌だったんですよね…。

もう一つ、自分には「思った以上に強いプライド」があるみたいで、人に気を遣うことが「相手の言いなりになる」という認識が根強く残っていることで「人に気を遣う」ことを考えるとすごく怒りが出ることもあります。

で、この願望は摂理に来てもずっとずっと抱えていたもので、確かに「元の土地」だったんですよね。
でも、これって人のことを考えること自体より「人のことを考えられない自分に対する嫌悪感」なんですよね。
そうなると根本的な解決は「人のために生きること、神様のために生きること」しかないんですよ。
これを踏まえて改めて考えてみた時「神様を喜ばせるために生きること」をしてみることに抵抗感がなかったんですよね。
そもそも「誰かを喜ばせること」自体は本当に好きなことですし、以前に比べて「周りの人、そして神様が自分に良くしてくれている」のを感じられるようになってきたのです。それも大きいのだと思います。

そう考えると心の回復が確かに進んでいるのを感じているのです。

自分の心の願望はとても強いし、長いこと持っていたものなのですぐに捨てられるかはわかりません。
しかし、少しずつ「神様を喜ばせるために」信仰生活ができたらいいなぁと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。