こんばんは、satoです。
日本人の多くは「本当に自分の人生正しいのか」という不安を持っている気がします。
そういう人にとって、この摂理の御言葉が答えになる、と「信じて」この記事を書きたいと思います。
私が人生生きる中で一番大変だな、と感じるのが「信じる」ことでした。
宗教においては、見えないことについて考えるので、この「信じる」というのがとても重要です。
しかし、宗教に限らず「信じる」ということは成功するうえでとても大切なことでもあります。
信じることのできる人は、自分が何か間違いをしていたとしてもそれをすぐに認め、直すことができます。
「間違っていた自分」が存在できることを理解して、「もっといい自分になろう」としていけるからです。
自分に対して自信が持てないと「間違っていた自分」を肯定できず、間違っていることを認めないか、あるいは間違っていた自分に落胆してしまうのです。
また、自分が何かをしたとしてもそれを「自分がやった」と高慢になることはありません。
自分が得たものに対して「本当に得てもいいのか?」と考える、その不安をかき消すために「自分がやった!」ということを考えるのです。
逆に「本当に自分が得てもいいのか?」と不安になり、奪われることを考えて「自分は得られない…」と苦痛に感じることもあります。
信じる、ということは「自己肯定感」の土台の上にあるもの、と私は考えます。
自分が存在してもいい、存在できるという感覚が強い人ほど信じる力は強くなっている、と感じています。
裏を返せば、「自分が存在していい」と肯定される経験が少なかった人にとっては「信じる」ということはかなり難しいことなのかもしれません。
私自身、自己肯定感がとても低く「ありのままの自分が存在していい」と感じられなかった人でした。
その辺りを摂理に来て、心の問題と向き合う中で解いていき、神様との祈りによって幾分か自己肯定感を得るようになりました。
しかし、未だ不安定なところがあり、時々落胆したり、苦しく思ったりしました。
何より、自分の考えに固執してしまう一方、些細なことが切れなかったりしました。
しかし、ここ最近祈る中で「自分の考え」の中にある「正しい考え」と「間違っている考え」というものを分別することができるようになりました。
その根本こそ「摂理の御言葉が正しいと信じる」ことでした。
この「信じる」ということが私にとって大きなハードルだったのです。
これまでの私は、何かを信じると聞いた際に「批判する人」が先に出てきて完全にそれを信じ切ることができていませんでした。
これは摂理に対しても同様でした。むしろ、摂理の場合「カルトだって」書いてある情報をみたのでさらにハードルが高かったです。
しかし、最近「実際になくなると信じて」祈ると、実際に悪い考えがなくなることを経験して、今までの私は「信仰が足りないのではないか?」と感じるようになりました。
それで、「神様が聞いてくださる、祈ればなくなる」と信じてずっとなくしたかった心の問題、悪い考えについて祈っているうちに「これが悪い考えだ、この考えは神様が与えた考えでない」と強く悟るようになり、一気になくせました(^^)/
その中で「摂理の御言葉が正しい」と信じることによって、自分の問題が解かれていくのだ…ということを感じるようになりました。
これ、今までの私では考えられなかったことなのです。
「信じる」ことのできるものがあることがどれほど幸せなことでしょうか。
自分に対して不安を持っていた私にとって、「御言葉に沿っていればいいんだ」と信じられることがどれほど大きな救いでしょうか。
今まで「本当に正しいのか?間違っていないのか?」と不安に思っていた私にとって、それは本当に大きな救いでした。
この「信じるもののある」祝福が、多くの人に望むことを祈ります。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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